アートと見る者との間の対話

アートと見る者との間の対話

  「あらゆるものにアートを見る」より   シデナ・マリークラーク

       

芸術というものには制作者と作品と鑑賞者が関わっていることは間違いありません。

制作者と作品というのは同じではないですし、これに鑑賞者が加わらないと芸術として完成しない感じもあります。

音楽作品や絵画作品、あるいは映画にしても、同じ作家が同じ作品をもう一度作れるかとなったら、そんなことが無理なことはすぐに見当がつきます。

作家は作品がなければ鑑賞者と関われないわけですが、個々の作品もその時しかできないという意味では、やはり作家から独立していると言えます。

なんでこんな当たり前のことを言っているかというと(^^;)、いわゆる芸術的感動とかその意味とか言うのは、けっして固定的なものではなくて、その場でその瞬間に生じているものだということを改めて感じるからです。

芸術の成立には、最初に作家の意図がもちろん深く関わっているでしょうね。

でも、最終的に完成した作品が、最初に意図されたものかどうかすら定かではないのではないでしょうか。

たとえば、わかりやすいところで、映画という総合芸術作品があります。

脚本家や監督の意図があって映画作りが始まるわけですが、たくさんの人々と偶然を巻き込んでその作品は完成します。

そしてさまざまな環境にいるさまざまの年齢の観客たちのなかで、ある種の感動とか、その他もろもろの情動が起こるわけです。

しかも、その映画を同時代で見た人々と、ずっと時を隔てて観た人々、また外国で観た人々に起こる反応は、またそれぞれに違うでしょうね。

作品として定着しているのは(原理的には)同じものであるはずなのに。

さまざまの芸術作品の作家がよく、自分と作品の関係は作品を作るまでで、作品ができあがって自分の手元を離れたら、もうその作品は独自の道を歩みます、みたいなことを言うのは、そういうことをよくご存知だからでしょうね。

芸術作品の意味というのは、その場その場で、その作品とそれに触れた者との間で起こる一種のコラボ現象みたいなものなのかもしれません。

その瞬間その瞬間の想像として起こっているのかもしれませんね。

いったい、誰が起こしているんでしょうね。(^_-)

では、シデナ・マリークラークの「あらゆるものにアートを見る」から、“アートと見る者との間の対話”というあたりのお話を伺うことにしましょう。

シデナさんがここで「アート」という言葉で、絵画作品をイメージしているみたいです。

       

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私たちの目によって開かれ、私たちの感性によって明らかにされることを待っている絵が存在します
それは、特に「幽玄」の感覚を持つような絵です。
絵が明らかになっていくだけでなく、同様に私たち自身も明らかになっていきます。

 



男性的見方でアートを見る傾向が私たちにはあります。
そこになにかを探そうとし、絵からなにかを期待しようとします

この男性的エネルギーには、インテンションや要求があります。
しかし、私たちが前進し、探求し、決断するためにはこのエネルギーが必要です。
それによって求めるものに到達できます。


しかし、いったん目的を達すれば、この場合で言うと、それは一枚の絵の前に立つことですが、私たちはくつろいで、受容性を開くことができます。
この時点で、女性的観察者が参加する準備ができます

私が参加という言葉を使うのは、芸術作品を見て、それが与えるものを受取ることは、ひとつの交換だと考えるからです。

アートは鏡です。
それはアーティストの表現であり、エネルギー的放出としてはじまります。
彼らの独自のスキルや画材の中で、その形を呈していきます。
この段階で、私たちはアーティストの意図を見て、感じ取ることができます。

しかし、いったんアートがアーティストから手放されて、独り立ちすると、その作品はさらに深い層を表します
アートと、それを見る者との間に対話が可能になり、その対話の中で、アートはそれ自体が持つ深みを、私たちの中に深く映しだすことができるのです
しかし、それは私たちの感性に大きく左右されます。
あなたがひとつの芸術作品を鑑賞して、その作品に感銘したあと、「もう、この作品はじゅうぶん見たから、次の作品へ移ろう」と思うときがあります。
しかし、あなたがもしその瞬間に待つことをするなら、そこにはまだ、なにかがあるかもしれません。

そこに現れようと待っている層があることがよくあります
すぐにそれが現れることもあれば、ときには絵や彫刻によってはもっと時間がかかり、それ自体が姿を現すのに控えめなものもあります。
その宝が深く隠されているのです。
また、あえて隠されている場合もあります。
アートにおけるこういった美の質は、特に日本でよく見られます。

               
『リビング・エナジー』Vol.6(p64-65)
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男性的見方と女性的見方というのは面白いですね。

たしかに、ありそうです。

【いったんアートがアーティストから手放されて、独り立ちすると、その作品はさらに深い層を表します】

さて、何を基準にして、浅いといい、より深いと言えるのか。(^^;)

pari 記

 

 


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