糖尿病のエネルギー分析(2) 責任に関する問題
「微細解剖学への旅(2)」より メアリー
世の中って、いろいろゴチャゴチャしていると思いません? (^^;)
いつも問題があって、ひとつの問題を解決したら、その結果として問題が二つ生まれてくるような感じです。
それは、言ってみれば、こんな感じです。
世界はひとつしかないのに、いろいろな人の意見を聞くと、それぞれもっともで、しかもそれぞれが相互に矛盾しあっているという具合なんです。
この状況って、整理すると、とても単純なことがわかります。
要するに、二つの見解に整理されちゃうわけです。
ひとつは、それぞれの人の意見とか見解は正しいのだから、世界の方が間違っているという結論です。
いったい誰が世界を創ったのかは知らないけれど、もし神が世界を創造したのだとすれば、その神にすべての責任がある。
つまり神は間違っている、というのがひとつの観点です。
えへへ。(*^_^*)
もうひとつは、見当がつきましたか? (^_-)
そうです。
世界には、何も問題はない。
間違っているのは、あなたのものの見方だ、という観点です。
(*^_^*)
この世界がいろいろゴチャゴチャしている状況は、煎じ詰めると、この二つのどちらかの結論に至ららざるをえない。
あなたは、どっちだと思いますか? (^^;)
すべての問題の責任をどこにいるのかわからない、創造主の神に預ける方法。
そして、その神は私の側にいるのだから、私は絶対に正しい、というところから出発する観点。
つまり、簡単に言えば、間違っているのは私以外の世界の方だ、という観点。
もうひとつは、世界の方にはじつはまったく何の問題もなくて、これはもうただあるがまま。
そこに問題があるように見「えるのは、みんな私の誤解のせいだ、という観点です。(^^;)
これはもう、ちょっと困った観点ですが、世の中的にはそんなに流行っていないのですが、ちょっと精査した方がいいかもしれません。
肉体的な病気も何もかも、そういう私たちのものの見方のゆえに生まれてきているという観点もあるらしいんですよね。
そうなると、私たちとしてはちょっと困っちゃうのですが。(*^_^*)
今回はメアリーさんこと中村裕恵さんの「微細解剖学への旅(2)」の「糖尿病のエネルギー分析(2) 責任に関する問題」という記事からご紹介しようと思います。
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糖尿病のエネルギー分析(2)
責任に関する問題
糖尿病は、ほとんどといっていいほど責任問題がかかわる不調です。
この問題にはさまざまな形があり、次にあげるものはすべて、糖尿病の原因として考えられるものばかりです。
・他人のために責任を取らせられることに憤慨する。
これは、一人前になるのを拒否しているか、無責任さを否定しているためで、責任感のある人に埋め合わせをさせることになる。
・「親であろうとする」親の要求に憤慨する子ども。
実際の親が、子どもが求める世話や注意を与えるほど感情的に成熟していず、自分の不手際を子どもに穴埋めさせたり、子どもに理解してもらおうとする場合、子どもは親子の役割が逆転したことに憤慨し、幼年時代の終焉が早すぎたことに恨みを持つようになる。
・だれか代わりを頼みたいのに、ひとりで責任を引き受けなくてはならなかったことに対して憤慨する。
これは人の自然な成熟過程を完全に無視し、引き伸ばす。
・支配力を失うのを恐れて、他人が成長して責任を果たすのを妨げる。
・つぎつぎに無責任な行動や態度を弁解し続ける。
すると、弁解している本人はその本来の源に向けられるはずだった感情エネルギーの犠牲者となる。
こうしたあらゆる責任問題が膵臓に襲いかかります。
というのも、膵臓は車の燃料タンクのようなものだからです。
タンクは、ひとりのドライバーが必要とする燃料しか用意していません。
いいかえると、インスリンは一種のエネルギーで、身体は一人分の仕事をするだけのエネルギーしか用意していないということです。
憤りのエネルギーは、割り当てられた一定量のエネルギーの配分がどうも狂っているらしいという信号になります。
この信号のために、信号に反応するインスリン(エネルギー)の生産が混乱をきたすのです。
(「健康の創造」C・、キャロライン・M・ミス著より)
『リビング・エナジー』Vol.5(p61)
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糖尿病という病気が、もしここで『健康の創造』の二人の著者C・ノーマン・シーリーさんとキャロライン・M・ミスさんがおっしゃっているような理由から起こるのだとすれば・・・。
もしそうなら、他の病気もすべてそうなのでしょうし。
これはもう、何をか言わんや、ですね。(*^_^*)
pari 記