『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』
これを書いている現在は2010年代の初めも初め、その入り鼻の1月6日です。
“…十年代”という言い方がありますが、この10年ごとの刻みは、後から思い返すとそれなりのイメージがあるものですね。
いわゆる“精神世界”の本でも、それなりにはっきりした情報の質の違いが感じられたものです。
それと……大きな印象を残す本には……その本の“成立(思索、洞察、情報源など)”にも“伝わり方(文書化の経緯など)”にも、それなりに特徴があるものが多いような気がします。
ここでご紹介する『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』(ドイツ語版)の初版が出版されたのは第一次大戦の終結した2年後、1920年のことでした。
その再販がドイツで出版されたのが1977年、日本語版の翻訳は1980年代の初めに出版されました。
はじめて読んだときの衝撃はいまとなってははっきりとは思い出せませんが、ただ一日中その興奮が続いていたような記憶があります。
精神世界の本というと、このごろではいわゆる地球外存在からのチャネリング情報が多くなりました。
そういうETエンティティからのチャネリング情報には、内面的な精神性の高さや妥当性だけでなく、地球の科学水準と比較した場合のあきらかな先方の優位差が背後に感じられます。
この『パパラギ』という本が特異なのは、“はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビ…”という副題からも見当がつくように、その思索や洞察の背後に、圧倒的な科学力などまったく存在しないことです。
それどころか、この“演説集”の語り手本人が、もともとは南海の島を訪れたキリスト教の宣教師の言葉に全身全霊で打ち込んだ島の青年だったわけです。
そして、自らそのキリスト教を生んだ憧れの西洋世界の見聞を志願し、西洋世界に渡り、そこにある世界をまっさらな目を通して見たのです。
西洋世界のマインドコントロールから免れていたその目は、まさに“賢者”の目として働き、いまや全地球を覆うに到った現地球文明のあらゆる病弊を、そのままに映し出しました。
そして、島に帰って、これから襲ってくる西洋文明に対して、無邪気な仲間たちを護る備えをしようとしたわけです。
「もくじ」を見ただけでも、その洞察がどれほどのものかがわかります。
「パパラギのからだを覆う腰布とむしろについて」――(肉体の歓びをポルノにしたキリスト教)
「石の箱、石の割れ目、石の島、そしてその中に何があるかについて」――(都会という人間砂漠)
「丸い金属と重たい紙について」――(金持ちと貧乏人を生む「お金」の地獄)
「パパラギにはひまがない」――(時間幻想とその道具としての時計)
「パパラギが神さまを貧しくした」――(所有幻想とそれが生み出す犯罪)
「大いなる心は機械よりも強い」――(生態系を破壊する機械のリズム)
「パパラギの職業について――そしてそのために彼らがいかに混乱しているか」
「まやかしの暮らしのある場所について・束になった紙について」――(騒音と暴力の発信源「映画」と「新聞」)
「考えるという重い病気」――(まさに賢者の言葉)
「パパラギは私たちを彼らと同じ闇の中に引きずり込もうとする」
……。(-||-)
「思えば遠く来たもんだ」……という気がしますね。
pari 記
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