メキシコの波

メキシコの波
    「粒子と波動、魂と光線、色と光」から  ドミニク・ヨーマン
       私たち人間は、それぞれに幸福を願う“個人”として生きているようでもあります。
でもこの“個人”というのは、じつはとても兼ね合いの難しい在り方でもあります。
なぜなら、“個人”はまわりの溶けこまないと存在できないからです。
「人間」というのは「人」と「人」の「間」に生きなければならない、と聞いたことがあります。
ときどき狼やゴリラとなど人間以外の動物に育てられた人の子の話を聞いたりすることがありますが、その子があとで人間社会に馴染むのは大変なことですよね。
一定の年齢をすぎてからは、もう狼やゴリラの社会に馴染んだ人の子を人間社会に戻すことはおそらく不可能ではないでしょうか。
人間の親から生まれたからといって、それだけで人間になるわけではないことは明らかです。
ということは、“個人”はその規模はともあれ、何らかの集団や社会に適応してそのなかで生きなければならないわけです。
にもかからわらず、“個人”は、いつまでも赤ん坊のように、ただ無条件に手放しでその集団や社会に溶けこむことができるわけでもありません。
その集団や社会のメンバーとして、ある程度自立してそれなりに期待される役割をこなせるようにならなければならない。
なぜなら“個人”が出て行く社会は、誰もが自分と同じように“個人”となった人間たちで構成されている世界だからです。
もし“自分”が何らかの独自性をもってまわりからは切り離された“個人”だと思っているのなら、まわりの人たちも同じように思っているはずです。
つまり、個々に独自性を持って“孤立している”はずなのに、でも同時にまわりに“溶け込む”とこが要求されてもいる。
“個人”が演じることを要求されているのは、そのような高度なバランス能力が要求される、まるでサーカスの綱渡りのような演技だということになります。
“個人”は、自分の内面と外的表現のあいだの矛盾で、疲弊しきってもしかたがないような難行を日々演じているわけですよね。
でも、現象世界のなかで、“自分”はまわりからは切り離されているという「分離幻想」を生きるには他に方法はありません。
今回ご紹介するドミニク・ヨーマンの「粒子と波動、魂と光線、色と光」のなかに【メキシコの波】に触れた場面がありました。
サッカー場のサポーターたちが両腕を上げたり下げたりして演じるあの“波”も【メキシコの波】のひとつになるのかもしれません。
個々のサポーターはもちろん、それが内面の喜びなのでそうしています。
でも、もしそれを内面の喜びでできなくなった“個人”がいたら、その人はたちまちその仲間に入っていることはできなくなるでしょうねぇ。(-_-)
では、ドミニク・ヨーマンの記事からその辺りの部分をご紹介しましょう。
       —————————————————————— 粒子と波動、魂と光線、色と光
ここでは、「色と光との関連から見たとき、私たちは誰なのか」という問いに触発された一連の考えが述べられています。 こうした観念はまた、粒子であったり、波であったりする、光の本質とは何なのか、という科学的な問いによって現れてきた思考をも含んでいます。
それはある問いから始まりました。 「光の本質の持つ逆説(粒子か波かという)と、人間の存在の間に、何か似通ったものがあるだろうか」。 個人的には私たちは粒子のようなもので、自分なりの軌道に従って生きています。 けれどもサッカーの試合に行って、集団となって動く人々を遠くから見ていると、より波に近いように見えます――あなたがもしサッカーのファンのすることをご存知なら、とくに有名なメキシコの波というものもありますね。 ですから、遠くから見たとき、個人の粒子の集団というのは、波のように見えます。 このような場合には、動きの底に、何かまとめ上げる原理のような力が横たわっているようです。 その波は、その集団の人々を通して現れる観念やエネルギーなのでしょう。 観念やエネルギーそのものは、また別のレベルに現れてくるものであり、易が映し出し、啓示しようとしているのは、このレベルなのだと思います。
また、こうした文脈において、人々(粒子)がある刺激にどう応えるか、その刺激に対し、ある波の一部になるかどうか、ということを予測することはできないというのも、注目に値することだと思います。 個人の行動を予測するのが難しいというのは、量子物理学のある側面を反映しています。 私の理解している限りでは、量子物理学は、確率として示されるのです。 量子の現実というのは、粒子の構成要素は、亜原子のレベルでは、常に存在したりしなくなったりしている、ということであり、ある粒子が現れるかどうかという予測は、確率として示されるのです。 この二つの状況の違いというのは、社会においては、粒子(個人)が波以前に存在するということです。 量子物理学では、波は粒子に先だって存在しています。 例えば、亜原子レベルにおいては、原子や世界の成分である粒子は、存在したりしなくなったりしているにもかかわらず、原子あるいはより大きな規模において、世界は存在しているし、また存在し続けるだろうということです。
『リビング・エナジー』Vol.4(p68)

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なるほど。
> 社会においては、粒子(個人)が波以前に存在するということです。 > 量子物理学では、波は粒子に先だって存在しています。
この「社会」と「量子物理学」の喩えはとても面白いですね。
さあ、このどちらかが、じつは単なる誤解なのでしょうか? (*^_^*)
それとも、どちらも真実なのでしょうかねぇ?
pari 記

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