感極まった生徒のひとりが
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』より
ヴィッキー・ウォール
人間として生きていて、痛みを知らないという人はいないでしょうね。
あらゆる感覚刺激はなんらかの意味での“圧覚”と言うことができるそうです。
つまりその感覚刺激は強めていけば最終的にはその感覚器官にとっての「痛み」になるとういうことです。
そうであるなら、もともと肉体を持つものが痛みと無縁でいることはありえないと言えそうです。
幼いころからの大小さまざまな痛みをとおして、私たちは避けるべき危険の範囲を学んでいくのでしょうね。
ところで、あなたはこれまでの人生で“激痛”と呼べる痛みを経験したことがありますか?
激痛と呼べるかどうか、痛みのために一睡もできなかったという経験があります。
なるほど、痛くて眠れないということがあるんだな、とそのとき思ったことを記憶しています。
でも、不思議なものです。
あとになって、その痛みを思いだしてみろと言われても、できないんですよね。
痛かったという事実は記憶していても、その痛みを感覚的に思いだすことはできないわけです。
つまり、痛いという体験は、その瞬間のもので、その体験に「痛み」というラベルを貼って、その体験を避けようとするのは、それとはまたまったく別のことなんでしょうね。
人間は動物種のなかで、その能力が抜群に発達していて、他の動物達とはまた違ったいわゆる人生を送らなければならないんでしょうね。
今回、ヴィッキーさんが触れている彼女の体験は、とても風変わりなきっかけで起こってしまった痛みの体験だったようです。
ヴィッキーさんにとっては大いなる衝撃でしたが、相手の方も驚いたでしょうね。
では、ヴィッキーさんにその時の体験を語っていただきましょう。
「B031 ファウンテン」(グリーン/ゴールド)について語るなかで、ヴィッキーさんはこの体験を思いだしています。
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グリーン/ゴールド
この組合せは、物質面にも、霊的な側面においても、正しいものを選ぶ決意と知恵を表しています。
その両面とも、人が進化するのに必要なのです。
けれども、もっとも賢い、黄金の魂ですら、時として、自分の方向性とスペースを見失うことがあります(ルシファーのように堕落した天使の例もある通り)。
そんなとき、魂は表現されないまま眠り込んでいて、その結果、肉体的にも精神的にも霊的にも、監獄に幽閉された状態になっており、救い出されるのを待っています。
純粋なゴールドの存在(下の部分)が、もう一度外に出て自由になるために、監獄の扉を開ける鍵を握っているのは、上のグリーンの部分です。
この組合せには、たくさんの側面と使用法があります。
肉体的、感情的なトラウマを受けた人が、人生にまた立ち戻っていく助けになりますし、この色の組合せを使って瞑想するのも、とてもよいでしょう。
私は、個人的な辛い経験を通して、このオイルのより深い側面を発見しました。
このことを今語るのは、人々が自分と、自分に起こっていることをより深く理解する助けとなるようにと思ってのこと、「なぜこんなことが起こったか」ということについては、今はまだ計り知れませんが、そこには、私が確信している以上の理由があることでしょう。
とてもすばらしいワークショップが終わった時のこと、感極まった生徒のひとりが、私を力の限り抱き締め、私の肋骨を三本折ってしまったのです。
激痛が私を襲いました。
しかし、そのことによって学んだことは多く、今では恨みではなく、感謝を感じています。
しかしそのときには、悲惨なことに、外科医に投与された痛み止めは私に合わず、気がついたときには、私は老人病棟に放り込まれていました。
痛みはかなりひどく、おまけに目も見えず、もう打つ手はありません。
そのとき味わった惨めな思いを、ここでこと細かに述べることはできないし、その気もありませんが、十字架にはりつけにされたようだったとだけ言えば、それで十分でしょう。
家に帰る道中にも、痛みはまだ続いていました。
私は必死の思いで、天然の痛め止めであるオーラソーマの「レスキュー」を塗ってみました。
が、驚いたことに、痛みはあいかわらずひどく、ほとんど効き目がありません。
あまりに身近な問題は、自分の手に負えないというのは本当で、「あらゆる教師には、教師が必要」という古いことわざがありますが、「あらゆるヒーラーには、ヒーラーが必要」とも言えて、自分や自分の愛する人を癒すのは、なかなか難しいものです。
というのも、本当に必要なものを見出すための冷静な目を、なかなか持てませんから。
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p172-173)
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ヴィッキーさんの身体の脆弱性は、相手の方にとってはまったくの予想外だったでしょうから、そのときの生徒さんの驚愕も想像できますね。
肉体を持って生きているかぎり体験を避けることはできません。
理由があろうとなかろうと、そのとき起こってしまった痛みは、痛みとして耐えるしかありませんよね。
pari 記