“For(すでに)given(与えられている)”(橋本恵さん)

私たちの人生というのは【誰かになって、その誰かとして生きる】というドラマを演じることとも言えそうです。

ところでこの【誰かになる】というのは、なんらかの特徴を持った人格パターンを引き受けるということですよね。

なんらかの人格的特徴を持つということは、つまり人間というのはこうあるべきだという、ワンセットの“思い込み”とか観念を持つということです。

こうあるべきだと思っているわけですから、その条件を満たさないような他人は、なんとなく許せないし、受け容れられないわけです。(*^_^*)

たとえば、人間は長幼の序は守るべきだと思っていたら、その人は、自分の思ったことを相手かまわずそのまま言うような、生意気な態度の他人は許せませんよね。

ところが、この「べき」とか「条件」というのは「諸刃の剣」ですから、許せない他人を切った同じ剣は、じつは自分の同じような部分も切りつけています。

すると、自分のなかの似たような部分、つまり相手構わず言いたいことを言いたかった部分も、やはり許されていないわけです。

他人ならまだしも、“自分”に許してもらえなかったその言いたいことを言いたかった部分は、自分に認知されないまま無かったことにされてしまいます。

無かったことにされても実際はあるわけなので、そのエネルギーは肩身の狭い思いをしながら、そのまま身体のどこかの細胞に閉じ込められています。

そして、気づきがそこに向かおうとすると、そのエネルギーに直面するのを避けるために、ネガティブな感情が起こったり、ぼんやりした不安が起こったりするのでしょう。

それが身体のなかに一種のエネルギー的な滞りを生じさせ、ストレスの原因になっていくわけです。

人生の苦しみというのは、あるがままの現実に自分が突きつけた「条件」が、回り回って自分に戻ってくることによって生じるのだと思います。

実際には在るものを無いことにしたり、実際には無いものを在ることにしたりして、勝手に苦しんでいるのかもしれませんね。(^^;)

そしてそういう状態を癒やすためには、結局、本来の全体に戻るしかなく、そのプロセスに関わるのがキリスト教の文脈では「許す」とか「受け容れる」という言葉になってくるのでしょう。

今回ご紹介する記事で橋本恵さんが触れている「Forgive(許す)」という言葉は、キリスト教のいちばん深いところにある中核的概念だと思います。

では橋本恵さんの記事「ハートの中のハート~エメラルドターコイズの旅体験記」から、そのあたりの話題に触れた部分をご紹介しましょう。


「ハートの中のハート、エメラルドターコイズ」の旅と聞いて、みなさまはどのように感じられるでしょうか?

オーラソーマを学んでいる方なら、この旅のタイトルは9番のボトルの名前だとすぐにお分かりになるでしょう。

私も、この旅のオーガナイズのお話をいただいたときに、ボトルがパッと目に前に浮かび“ハートの中のハートを探求してみたい”と思い、即答で引き受けました。
そのニーズにYES と答えたときから、この旅ははじまっていたように、今では思います。

……

……この旅、このコースのはじまりに、マイクさんはハートの中に入るキーとして“Forgiven(許し)”のお話をされました。

ハートのつながりを持っている人への“Forgiven(許し)”、受け入れることが解決につながる…

自分自身への“Forgiven(許し)”許すことで“For(すでに)given(与えられている)”に気がつく
自分を受け入れると、すでに与えられたことが起こっていく…というお話でした。

“Forgiven(許し)”のGiven は、Give の過去分詞形ですから“For(すでに)given(与えられている)”ということは、許すから与えられるのではなく、最初から、以前から与えられているということを示しています。



許すから与えられるのではなく、許そうが許すまいが与えられていて、許すことでそれを活かすようになる、起こっていくという感じです。

私は、このお話を聞いたときに、心から救われるような、それが本当にすべての解決のキーであるように感じました。

そこで、このような決意をしました。

“この旅に来るまでに起きたこと、これからの旅で起こること、すべてを許そう”

そうして“許した眼、許した姿勢”でいることで、今まで以上に自分を自由にし、それが自分を知るきっかけになるように思ったからです。

このお話を聞いたのは旅のはじまりだったので、それからの時間はリラックスして過ごしました。

それは、終始のんびりと微笑んで過ごすということではなくて、イライラしたり、緊張する自分に気づきつつリラックスしているということ。どんな自分も許している感覚です。

誰かの怒りや悲しみや、そこから起こるパターンにも“どうこうしようとしない”で、“いい人”にならないで、そのまんまを許している、というように心がけていました。

もともと自分はいい人的なキャラクターではないので、他者をそのままにしておくのは容易なことでしたが、それでもなにかふっきれた感じがしましたし、この旅の意図であった“自分なりの役割や立場、在り方をつかむ”ということの役に立ちました。

そして、旅の途中から“私は人の面倒を見ることも、教えることもできないけれど、誰かが新しい経験をするドアを開くことはできるし、それならやっていきたい”と思いはじめました。

面倒見の悪い私が、そんな自分自身を“Forgive”許すことで、面倒見が悪くても、誰かに新しい経験の機会を与えることはできるということ“For(すでに)given(与えられている)”に気がついたのです。

私はもう9年ほどオーラソーマのティーチャーをしていますが、多くの生徒さんと関わるなかで“お母さんの代わりにはなれない”ということに対して罪悪感と、こんな自分では不十分であるという感覚も持っていたので、この“機会を与える役目でいいのだ”という視点がやってきたことは画期的でした。


『リビング・エナジー』Vol.9(p20-21)


 

キリスト教では、人間は生まれながらにして罪を負っている、という「原罪」の観念が中核的な教義として伝えられてきた長い歴史がありました。

それがついにここにきて、【私たちはすでに無条件で許されている】というニューエイジの観念が明け染めようとしているのですね。

pari 記

 

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