カルマを解き放つ鍵
「じつは“今”しか存在していない」、という言葉を聞いたことはありませんか。
これは、ある意味で、スピリチュアル情報の“常識”、言ってみれば“最大公約数”のようなものかもしれません。
もうひとつ、スピリチュアル情報の“常識”に、「すべては、ひとつです」というのがあります。
そして、この二つは、外見はとても違っているのですが、どうも本質的には非常に深く関係しているらしい、という気もします。
なぜなら、もし「“今”しか存在していない」のなら、今この瞬間に、宇宙のなかの森羅万象すべてが存在している、ということになります。
そして、もし今この瞬間に、宇宙のなかの森羅万象すべてが存在しているのなら、そこで“物語”を紡ぐことは、じつは不可能であることがわかるでしょう。
例えば、いま多次元宇宙の広大な構造を想像してみたとします。
未熟な星のある個人が、高度に進化した上位次元の星のメンバーへと進化していくというような、ある“物語”を紡ぐ状況を想像してみましょうか。
そうしたら、それには広大な多次元宇宙のある一点から別の一点への“移動”に相当するような、ある“時間の経過”が絶対に必要であることが、わかるはずです。
もし、「未熟な星のある個人」も、その個人が成長に成長を遂げ、ついに到達した「高度に進化した上位次元の星のメンバー」も、じつは同時に存在しており、しかも同時に同じ個人であるのなら、もう“物語”は存在できないでしょう。
しかし、「じつは“今”しか存在していない」のなら、広大な多次元宇宙のある一点から別の一点への“移動”にかかる「時間」は存在しない、ということは確実です。
ということは、その内部の移動(つまり、霊的進化)に時間がかかる広大なスピリチュアル多次元宇宙というのは、「夢」のなかにしか、想像のなかにしか存在しない、ということになります。(^_-)
そして、「未熟な星のある個人」も、その個人が成長に成長を遂げ、ついに到達した「高度に進化した上位次元の星のメンバー」も、同じ自分だった、ということになるでしょう。(*^_^*)
ということは、スピリチュアル情報の二つの“常識”、「じつは“今”しか存在していない」と「すべては、ひとつです」は、まったく同じことを、二つの切り口から語っていただけだった、ということになります。
言い換えると、もし「時間」が幻想なら、宇宙のなかの孤立した「個人」というのも、同じく幻想に他ならないということです。(^^;)
そしてどうやら、その想像上の「個人」は、「カルマ」という想像上の“思い込み”によって存在を保証されているようなのです。
その「カルマ」という想像上の“思い込み”を手放すには、その“思い込み”を愛するのが、一番手っ取り早いそうなのです。
今回ご紹介するのは“カルマを解き放つ鍵”という、とても示唆的な洞察です。
では、Penni Du Plessisiさんの「魂の万華鏡」という文章のなかからそのあたりの部分をご紹介しましょう。
——————————————————————– 私たちは自分のまわりに自分の体験と現実を作り上げています。 私たちは「Xファイル」や「タッチド バイ エンジェル(天使に触れられて)」のエピソードのように生きていきたいのでしょうか? 私だったら、後者のエピソードの中に入ります。 ほんの一瞬で欲しいものを手にできるのですから。 ちょっと考えるだけで、人間を平和な者、光の存在(ライトビーイング)に変容できるのですから。 巨大星雲の実存になったことを想像してみてください。 そうなると私たちは現実を変えることができ、惑星から惑星へと旅をして新し いことを経験し、学び、成長できるのです。 それこそ、私が乗りたいジェットコースターです。
では、どうやって私たちがこれを達成できるかを見てみましょう。 私はこの特別な仕事を与えられたことを深く感謝しています。 このワークは新たな道を開き、私たちを時間の中に封じこめているカルマを片づけてくれるのです。 時間がカルマです。 そしてカルマはワークです。 私たちが次に行きたいところを選べるように、今生一度で、すべてのワークを片づけることができると、想像してみてください。
ご存知でしょうが、もしあなたが、誰かに言われたことに反応すると、(それが彼らに後悔を感じさせたり、彼らを助けたり、あるいは彼らを怒らせたり、苛立たせたりしますが)、あなたは彼らのカルマとからみ合ってしまうのです。
盗むな、人を殺すな、人と争うな、そういったことを私はとても大切なことだと思っていました。 でも違うのです。 それはあなたが他の人の生に巻き込まれると生じます。 これは本当に恐ろしいことです。 一日に何回そんなことがあなたに起こるか考えてみましょう。 カルマを解き放つ鍵は、それを愛しながら大切にしてあげることです。 病気であれ、苦い関係性であれ、それを成長への経験として許しましょう。 あなたが面倒を見ている、公平な立場で愛していることを知らせるのです。 そうすればそれは自らを愛するようになります。 それに固執しないように。
『リビング・エナジー』Vol.5(p19-20) ——————————————————————–
なるほど……。
カルマを手放すということは、そのカルマに対する“思い込み”を手放すということと同じことなのですね。
ある事象に対する“思い込み”を手放すということは、すべてを“あるがまま”として受け容れるということなのでしょう。
それはきっと、その事象の創造者と、その事象の結果を被る者とが、じつは同じ人であり、すべてが夢のなかのことだった、と理解することなのかもしれません。
pari 記
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