愛しさのあなた
こういう現実がすでに地上で、しかもこの日本で始まっていたんですねぇ……。 「わたしは四十五歳になる主婦です」というこれ以上“引き算”のしようもない単純な叙述で書き始められたこの本は、その後も、そのまま一切の虚飾と無縁なままに書き進められます。 「<第一章> 父」では、自然に対する強い感応力を持った、真面目で、潔癖で、思いこみの強いお父さんの思い出が語られます。
風変わりではあっても、いかにもどこかにいそうな、あるいは昔いたような、そんなお父さんの姿に接して、一種の懐かしさを感じながら、読者は安心して、昔の日本にあったある家庭の時間の中に引き込まれるわけです。 すると、いつの間にかそのお父さんに可愛がられていた「ちみちゃん」という娘は、大人になって、家庭を持ち、娘さんとちょっと暢気で不思議な会話を交わしているんです。 と、たちまち、その家庭には“ホワイトホール”というものが準備され、植物との会話が始まり、牧神が呼び込まれ、さまざまな異次元の存在が出入りするようになるのですが、それらの風景がなんとも軽く可愛いらしく描かれるため、読者としては違和感を感じる暇さえないという感じです。
これが作家が造形するファンタジーだったら、真実らしく見せかけるためにさまざまなリアルな描写があるわけでしょうが、これは単純な事実なので、そんなことを説明する必要もないわけですよね。 というか、文筆業を営むわけではない著者はそんなことを思いつきすらしないわけでしょう。 現実なのか、夢なのか、童話なのか、ファンタジーなのか、そういったことをあまり詮索する気も起こらずに読み進めるうちに、しかしいつの間にか中ではどうやら飛んでもない事態が進行していくみたいなんですよね。 よほど容量の大きい方なんでしょうね。 そうとう大変なはずのことが、あまりに普通のタッチで描かれると、こちらにもその雰囲気が伝わって、あまり大変そうには見えないんですよ。 実際に渦中にある人の叙述というのは、こういうものなのかもしれませんね。
しかし、このさして厚くもない小さな本の中で書かれている事態の位相は、まるで“双曲線”のように跳ね上がって次元上昇していくようです。 じつに、とんでもない本というか、楽しい本というか、ありがたい本というのか……。 おそらく日本の中でしか起こりえなかった本ではないでしょうか。 とにかく変わった本です。
ちょっと立ち読みしてみましょうか。 ——————————————————————– 尊厳を取り戻すために
欠乏のドラマは、創造の全域で起きたことです。 地球人の中にはよく、次元の高い場所では調和した社会があると勘違いされている方が多いようです。 実際にも平和な領域はあります。 しかし、そこなりの欠乏が生じています。 肝心な創造の基盤がバランスを崩しているのです。 地球人はそのアンバランスから生じた幻想を突き抜けて、愛という真実の力を現実の中で示そうとしたコアが体験している生命体です。 あなたは、かつて支配のために誰かの遺伝子を操作した生命体に入っていました。 操作される生命体にも入っていました。 だから、あなたはこの出来事を完了することができるのです。
この欠乏のドラマは、何によって始まったかといえば、コアが与えないことはどんなことかなと思いついたことからスタートしました。 与えない遊びとはどんなものか知りたいと思ったのです。 ですから最初に何が起きたかといえば、与える行為がないことが、欠乏の始まりなのです。 まずは与え、それから受け取るのです。 与える行為がないままに受け取る現実を待ち望んでも、何もないのです。 同じ所をぐるぐる回ります。 多くの場合、受け取るのを待って、同じ欠乏の体験を、形を変えて実現しようとします。 自分は受け取るまでは幸せになれないと信じて――。
そうではないのです。 ほとんどの場合、与えないからつらいのです。 それがなくては生きられないはずのもの、満たされえなかった大事なものとは、あなたの与える行為だったのです。 だから、これを覆す力とは、与える力を最大限に表現する行為が、現実に表されることによってです。 だれかに手を差し伸べられるのを待っていた時間をおしまいにしてください。 与えられるのを待って、与えられないことを嘆いた時間はおしまいです。 そして、とても単純な言い方をするなら、意識していようがいまいが、あなたが本当に満たされる願いが叶う道は、あなたが出会う人に関係があります。 生きていて次々と出会う人は、実はあなたが自分を幸せにするための道しるべです。
出会う人の一人ひとりを誠実に愛したなら、あなたは最高に豊かな喜びを自分に与えることができます。 それが、本当にあなたが満たされる道しるべです。 ただ、愛とは誤解の多い言葉です。 欲望の押しつけ合いの関係に愛などありません。 けれど、人は時として自分の独占欲や期待を愛と呼んで、正当化します。 また愛は、もたれ合うことだと認識している人が多いと思います。 それを好む人も多いようです。 正常な愛が中心にある他者との交流は、生かし合うという状態にいたります。 互いに真実に感謝しながら、共にいる喜びに輝き、その喜びは形となって、新鮮な体験を与え合うのです。 それは自立した人が交わし合う愛です。
愚痴と不満に心を曇らせて、何かが足りないのだと受け取るためだけに世界を見渡していては、このような状態は望みようがありません。 同じようなことを繰り返しますが、大切なのでもう一度書いておきます。 今の地球上の文化芸術の九七パーセントは、心の機能を破壊する周波数を発しています。 あなたはそれを、感じ取れるでしょうか。 新しい文化を誕生させるには、自然界のなかにある真実の光と交流してください。 人間同士だと、愛なのか要求なのか見分けがつかないままに、繋がりを持ってしまいがちです。(p238-241) 『愛しさのあなた―光の存在とつながって生きる』 ——————————————————————–
ね。(@_@)
中身は、すごいでしょ。
> 与えない遊びとはどんなものか知りたいと思ったのです。 > ですから最初に何が起きたかといえば、与える行為がないことが、欠乏の始 > まりなのです。 > まずは与え、それから受け取るのです。 > 与える行為がないままに受け取る現実を待ち望んでも、何もないのです。 > 同じ所をぐるぐる回ります。
こんな話、これまで聞いたことなかったでしょ。(^_-)
pari 記
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