違う存在の視点から、世界を見せてもらう
「自己へ帰る旅」から 川島理果
世の中には“学び”がある、ということになっています。
そうかもしれません。
ひとは“成長”しなければならない、ということになっています。
そうかもしれません。
たとえば、この世に出てきたばかりの赤ん坊は、おそらくまだ“自分”の都合もわかっていないかもしれませんね。
でも、この身体という入れ物にとっての都合が、“自分”の都合として感じられるにしたがって、少しづつ厄介なことが起こります。
身体はお腹も空くし、身体にはお母さんのおっぱいも必要だからです。
そしていつの間にか、この身体が“自分”なのだと教わって、そのことに納得していくわけですよね。
そして、一旦そのことを納得してしまったら、今度はどうしても色々なことを学び、成長していかなければなりません。
なぜなら、世界は“自分”と同じように、もともとは当人本人(“自分”)の都合しかわからなかった個人たちが、集まった場所であるらしいからです。
でも、誰もが“自分”だけの都合を主張していては、人間社会はとても住みにくいところになってしまう。
だから、そんな無法を許さないために、世の中は皆んなで一緒に生存するための色々なルールが構築されているらしいのです。
だから、どの子も育っていく過程で、色々なルールを身につけなければならなかった経験を持っています。
それは“自分”にとっては“不都合な真実”ではあっても、他にどうすることもできないですよね。(^^;)
それには耐えるしかないわけです。
つまり、“学ぶ”とは、あるいは“成長する”とは、他の人もどうやら事情は同じらしいということ、みんな我慢をしているらしい、と知ることなんでしょうね。
そしてそのみんなの間で、比較したり、競争したりはじめることで、人間は完全に社会に組み込まれていくわけでしょう。
この成長ゲームは、“自分”というものはじつは存在しなかった、ということが心底納得されるまでは、続いていくしかないのかもしれませんね。
それまでは現実に教えられながら、徐々に、小出しに、ギブアップしていくのかもしれません。
変な話をしてしまいました。^^;;
川島理果さんの「自己へ帰る旅」という文章を読んで、ちょっと茫洋とした思いに駆られました。(*^_^*)
————————————————————— 違う存在の視点から、世界を見せてもらう
色が微妙な色合いを見せるように、人もひとり、ひとりがユニークな存在です。 さまざまな色合いがあるからこそ、世界は美しく人もまたそれぞれが違う存在であるからこそ、美しいのでしょう。 そして、自分と違う存在がいてくれるからこそ、その違いから自分自身を理解していくことができるのではないでしょうか。 セラピーはまさにそういうものだと想うのです。 ハートをオープンにしてその瞬間に向き合うとき、それは相互の関係であることに気が付きます。 自分では決して選ばない色をリーディングするとき、自分の内側に新しい何かが生まれる瞬間があります。 自分とは違う色への想いや感性に触れるとき、自分が 360度方向に広がっていく感覚を幼い子どものような無邪気さや純粋な感性で素直に喜べるとき、それは自分のエネルギーとなり、大きなギフトとなってくれるのでしょう。 セラピーは自分と違う存在の視点から、世界を見せてもらうことであり、多くの人生を分かち合うこと、それはまさに宇宙の成り立ちについて学ぶということではないでしょうか。
人生の瞬間、瞬間が学びであることに気づくと、学ぶということは自分が育っていく充実感を伴う喜びの過程であることにも気づきます。 教えられることによってのみ、人は学ぶのではなく、教えることによってもまた、人は学ぶのではないでしょうか。 人に教えることは、自分の中にあるものを明確にとらえ直し、洗練させてくれます。 自分が携えているものを360度方向へと伝え、分かち合っていけるものへと成長させていく、その過程を教えられる側の存在が支えていてくれるのです。 ハートをオープンにして、その瞬間に向き合うとき、学びはいつも相互のものです。 それを忘れ、その関係に権威を持ち込もうとするとお互いに優位でなければならないという気持ちにエネルギーを注ぎ、理論で相手を説き伏せようとしてしまいます。 ハートから離れるとき、相手をありのまま受け止められずに判断してしまいます。
判断しているとき、人は過去の自分の限られた情報の中で分析し、答えを得ようとしてしまい、その情報を超えたものに対しては誤った受け止め方をしてしまいます。 自分の言うことが正しいと認められないことは、自分のスペースが脅かされることと感じるとき、人は自分のいる位置にしがみつきたくなってしまうのでしょう。
『リビング・エナジー』Vol.2(p101) —————————————————————
なるほど。
「セラピーは自分と違う存在の視点から、世界を見せてもらうこと」というのは、とてもおもしろい視点ですね。
もし完全に他人の視点から、いわゆる“自分”を見られたら、そのときも“自分”というのは存在するのでしょうか……。
考えてみれば、成長って、不思議ですね。
pari 記
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