あるがままの自分に寛ろぐ  ラハシャ博士

あるがままの自分に寛ろぐ
「カウンセリング 『内なる宝への扉への鍵』」からの抜粋
        「あるがままの自分に寛ろぐ」……。(-_-)
きっと言葉としてのこういう表現には、これまでにも何度か出会ったことがおありだろうと思います。
もしかしたら、こういうブログに縁のある方の場合、これまでそんな言葉は聞いたことがない、という方のほうが少ないかもしれません。
でも、あらためて自分に、では自分は「あるがままの自分に寛ろいで」いるだろうか? と聞いてみた場合、「くつろいでいる」と自信をもって断言できる方も……同じように少ないかもしれませんね。(^_-)
もちろん、わたしもその断言できないほうのお仲間ですが。(^^;)
だいたいこの「あるがままの自分に寛ろぐ」って……どういう意味なんでしょう。
言葉を知っていてその真意を知らない、ということはよくあるものです。
たぶんこういう言葉は、そういう可能性がとても大きくなる言葉のひとつのような気がします。
いちど、しっかりと確認してみたいものですね。
そのあたりを説明していただくにはいちばん適役と思われるラハシャ博士に伺ってみましょうか。
では前回に続いて、博士の「カウンセリング 『内なる宝への扉への鍵』」から「あるがままの自分に寛ろく」というテーマに関連した部分をご紹介します。
        ——————————————————————–
あるがままの自分に寛ろぐ
…… では、なぜそうなるのでしょうか?
それは、どんなネガティブな体験の痛みも、事態が別であるべきだという解釈の中に横たわっているからです。
人が体験そのものとひとつになった瞬間、その副産物が喜びであり、愛であり、あるがままの自分への寛ろぎなのです。 驚愕すべき現象とは、感情や情緒や体験とひとつになることの中で、ネガティブな側面はただ消えてゆくことです。
神秘的な発見は幸福、至福、平和、愛、自由のように、常に外側に求められてきたものが、すべて内側にすでに存在していたものとして再発見できることです。 人間が追い求めているものはすべて、お金でも、もっと大きな家でも、もっと大きな車も、あるいはもっと面白い愛のパターンを追い求めることも、それは基本的には幸福、至福、平安、愛、自由といったものを求めるという、この必要性を充足しようとしているのです。
あらゆる欲望は、一体性に戻るという根本的必要性を満たそうとするのです。
けれどもいったん私たちが内側に目を向けそこにあるものを見ようとしたら、私たちはこの一体性から自分が一度も離れたことがないことを発見します
カウンセリング、オーラソーマ、その他のヒーリング・テクニックによって、再びひとつになろうとするこの試みは支援されるはずです。 オーラソーマの色彩の中で、クライアントは「これが本来の自分だ」と明確に思い出すことができます。 その認識の中で寛ろぎが起こり、その色で表現される拒絶されていたかもしれないエネルギーが、家路に着くことができるのです。 そのまさに歓迎の中で癒しが起こるのです。 それはそこに一体性が起こるからです。 その一体性の副産物が喜び、愛、至福であり、平安なのです。
カウンセリングでは、カウンセラーがクライアントをサポートして、別であろうとするどんな希望も持たずにただあるがままを見て認識できるようにすると、一体になるというこの同じ現象が喚起されます。
クライアントが現にあるものを完全に体験できるようにカウンセラーがサポートすると、現にあるものとの闘いに囚われていたエネルギーが解放されます。
自分に目を向けると、私たちはどれほどのエネルギーが、あるがままの自分との闘いに浪費されていたかを発見します
自分の中で闘っている対象はすべて外側の世界にも反映されますから、私たちは同じものと自分の外側でも闘っているのです。 私たちが自分と闘うのを止め、自分の中にあるものを全面的に体験する瞬間、私たちは内なる愛と受容を発見し、同時に全ゲシュタルトが変化し、世界の見方の全体が変化します。 私たちは世界と闘うことも止めます。 これは恋に陥った人が最もよく表現しています。 恋人は全世界が愛であることを、全世界が花園であることを感じます。
ですからカウンセリングとは、クライアントがすでにある自分を発見するのを助ける単純なサポートなのです。 クライアントが何かを変更したいと望んでいる場合でも、カウンセリングはクライアントの中の何ひとつ、変えるという意図を持っていません。 逆説とは、内側の何かが変わるのを待つことによって変化が起こることはありえないことです。 変化と変容が起こるのは、別のものであろうとすることを止めることによって、あるがままを見て生きることによって、そしてあるがままの中に寛ろぐことによってしか起こりません

                 『リビング・エナジー』Vol.4(p14) ——————————————————————–
なるほど……。
「内側の何かが変わるのを待つことによって変化が起こることはありえない」というのは、とても納得できますね。
変化することができるようなものを、頼りにすることはできない理屈です。
努力して獲得できるようなものは、そもそも努力に値しない……。(-_-;)
つまり、努力はあまり役に立たないみたいですね。(^_-)
ついに……努力を諦めるときまでは……。
(*^_^*)
pari 記
     
Twitterボタン Twitterブログパーツ