ヴェーダ・テキストの「Soma(ソーマ)」への言及
「オーラソーマ:光と言葉」より クシュブ・ドイッチマン
私たちはいつもなにかを願って、いつも努力しているようです。
あなたはこのことを不思議に思ったことはありませんか?
自分はどうしていつもなにかを願っているんだろうって・・・。
ところで、なにを願っているんでしょうね?
これについては、誰でもすぐに答えられると思います。
なんやかんやの方法で幸せになることを願っているんですよね。
ということは、私たちはいつもなんやかんやの方法で、幸せではないわけでしょう。
必ずなにかの理由があって、そのせいで幸せになれないのでしょうね。
これさえなんとかなれば幸せになれるのに、というわけです。
でも、こんな言葉もあるようです。
「願いは叶う、結果は化けて出る」と。
これは内山興正老師と言われる禅僧の言葉ですが、なんかうまいですね。
つまり、その願いがかなった頃には、またなにか“これさえなんとかなれば幸せになれるのに”といった新たな状況が生まれているということなのでしょう。
どうやら、自分がなにかであるとは、あまり居心地の良い状態ではないのかもしれませんね。(^^;)
私たちは自分を人間だと思っています。
古のインドの聖典には「私たちは自分が思うものになる」という言葉があるそうです。
この言葉は、現代の精神世界では“思考は現実化する”とか“引き寄せの法則”といった内容を意味するものと解釈されます。
それもたしかにひとつの解釈ではありますが、でもそれはとても狭い解釈で、じつは「私たちが自分が思うものにな」ってしまっている結果のなかでの解釈とも言えます。
なぜならそこでは、私たちは自分が人間であることを疑っていないからです。
つまり、「私たちは自分が思うものになる」とは、人間になることも含めて言われている言葉だということです。
そういう意味では、私たちはちゃんと人間になっていて、その上でさらになにか幸せになれない状況があって、そこで幸せになることを願っているのでしょう。
今回ご紹介するクシュブ・ドイッチマンさんの記事のなかで、「人間の身体は、実際は裏返しになった手袋のようなものだ」というルドルフ・シュタイナーの言葉が紹介されています。
おもしろいですね。
人間の思い込みのいちばん核になっている部分が人間の内臓だというのです。
ではそのあたりに触れたクシュブ・ドイッチマンの記事をご紹介しましょう。
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先日ヴェーダのテキストを見ていて、私は「Soma(ソーマ)」への言及に遭遇しました
私は、このテキストがオーラソーマシステムの起源について、また、昔この言葉がどのように使われていたのかについて、なにか新しい展望を与えてくれるかもしれないと思いました。
私たちはヴィッキーの意図を語ることはできませんが、この言葉の本来の意味は非常に興味深く、また有益です。
オーラ(AURA)
オーラ、人間のまわりのサトルボディ(微細身)は、実際は、光が物質化するための通り道です。
もし、それに共鳴する「身体」を持っていなかったら、私たちがそのような繊細で微妙なエネルギーを吸収することはできなかったでしょう。
ルドルフ・シュタイナーはかつて、人間の身体は、実際は裏返しになった手袋のようなものだと言ったことがあります。
私たちが「内側」と呼んで意味する肉体内部の臓器はより物質的であり、私たちが「外側」と呼んで意味するオーラ・フィールドは、実際はより微細で、より透明で、私たちを聖なる光に結びつけてくれるものです。
そして、光の存在という自分の真のエッセンスについて、私たちに思いださせてくれるものです。
ですから、オーラが私たちの真の内側であり、私たちを源泉に、最後には光へと導いてくれます。
綿密に観察するなら、オーラは「外」に行けば行くほど、それだけ純化され、微細になり、存在の中に「拡散し」、それとの自己同一化も少なくなります。
なにかと自己同一化しないとき、私たちは干渉しません。
私たちは、自分自身と信じるマインドと、私たちを内と外から取り囲む生命の大洋との間に差し挟んだすべてのフィルタを通して、自分と生命との間に割り込むことはありえません。
私たちが自己同一化をしていなければ、機能することに巻き込まれ、干渉していなければ、私たちが望めば、意識のなかにより高位のエネルギーが自らを開示する可能性が、通り道がそこにあるのです。
ソーマ (SOMA)
「リグ・ヴェーダ」は、次のように言います。
「内なる世界の聖なる顕現は、次の三つのカテゴリに識別される。
1.光の顕現
2.音という耳に聞こえる流れの顕現
3.言葉(ソーマ)の顕現」
「・・・光と音は、献身者に対して異なる形態で顕現し、彼を存在の本来の生命力、すなわち神、聖なるものと結びつける。
それゆえマインドの印象は、無数の力強い神の顕現によって消滅できる。
光と音は願いを叶え、献身者を解放する」
「ソーマには、魂に対する、また瞑想空間の外側にも、さまざまな異なる啓示がある。
光と音は魂に吸収されて、私たちに永遠の生を与える。
それらは魂を取り巻く微細な包みを消滅させる。
2 本の脚(光と音の中の神の出現)は、このように私たちに現れる」
「聖なるものの顕現は、魂にとっての栄養となる。
それらが吸収されるとき、魂はすべての汚れから解放される。
魂とは聖なる全能者の一部であり、たとえそれが背後で変化し、それを認めることができない地点まで暗くなり、覆い隠されるとしても。
魂が純化されたとき、それは本来の聖なる意識を再び獲得し、永遠の生に入る輪廻の輪から上昇する」
この「リグ・ヴェーダ」の引用から、私たちはなにを得ることができるでしょうか?
それが意味するのは、光が形体に入るとき、音が形体に入るとき、そのようなものとして言葉が顕現しているということです。
言葉は神から人への、聖なるものから魂への伝達であり、そのようなものとして私たちのなかの聖なる部分と、けっして滅びることのない私たちの本質と共鳴します。
かくて、自らに伝達される必要がある、まさにそのものを私たちが吸収してはじめて、オーラソーマシステムはその本来の目的を完了します。
媒体としての液体は情報を、その中のコードを、細胞から細胞へと伝達します。
そのときソーマによって語られたことに、以心伝心の沈黙の聖なる言葉に気づくこと、目覚めること、そしてそれが私たちの内部で働き、それが私たちの実存の深みから立ちのぼり、世界の中で輝くのを許すことは、私たちに任されているのです。
『リビング・エナジー』Vol.6(p128)
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どうやら、自己同化の対象が拡散すれば拡散するほど、私たちは軽くなるということなのかもしれませんね。
ドイッチマンさんはそのことを【意識のなかにより高位のエネルギーが自らを開示する可能性】という言い方をしているようですが。
pari 記