人々の暮らしや常識というものは、驚くほど短い間に変わってしまうものなのですね。
もちろん、今という時代がこれまでの時代に比べて、少し特殊ではあるのかもしれませんが。
あなたはご両親からご本人が生きた子ども時代のことなどを聞いたことがありますか?
あるいはおじいちゃんやおばあちゃんから、彼らの子どものころの様子など聞いたことがあるでしょうか。
おそらく、表面的な意味では、それぞれの世代がまったく違った時代環境に生きていたことを知ることになったと思います。
たとえば今、私たち日本人は「令和」という元号で分類される時代に入りました。
それは今の私たち全員が生きている時代なのですが、では全員が同じ「令和」の時代を生きているのかとなれば、それは大いに疑わしいというか、実際はまったくありえないことです。
現在幼年時代を生きている子供たちにとっては、「令和」という時代のありようは、まさに人間世界のありようそのものです。
なにしろ、それ以外のありようを何ひとつ知らないのですから。
ところが昭和・平成という時代を生きてきた方々にとっては、それぞれの方の年齢や気質にもよることですが、この時代の在り方はそれなりに便利だったり、逆に不便だったり、馴染めなかったり、違和感があったりしているでしょう。
以前は「十年一昔」という言い方がありましたが、これは十年というほんのわずかの間に、いろいろなことが激変してしまう驚きを表した表現でした。
ところが現在では、10年どころか、2、3年の違いで一種の感覚的な世代差が感じられるようです。
なにしろコミュニケーションのあり方に起こっている激変なので、これは仕方のないことなのでしょう。
しかしひとりの人間が処理する知的および感覚的情報を無限に増やすことはできませんから、何か膨大に拡大した情報分野があるとしたら、必ずその陰には何かの情報分野が脱落していっているわけでしょうね。
どこかが進化しているのなら、他のどこかが退化しているとも言えるのかもしれません。
要は、変化していっているのでしょうね。
デジタル媒体によるヴァーチャルな交流が増えてきた状況についてのコガジュンさんの記事を読んで、そんなことを感じさせられました。
ではコガジュンさんの「“つながり”を持つこと、それはあなたの世界が広がること」から、そのあたりに触れた部分をご紹介しましょう。
アクエリアスの時代、情報は瞬時に伝わることが可能になりました。
持ち運びやすいパソコン、スマートフォン、タブレットなどの普及によって、私たちは日本に住んでいながら、世界中の情報や、ヴァーチャルな旅をすることもできるようになりましたね。
遠くに住む友人とも、FacebookやLINEなどで、すぐに文字での会話ができるようになり、とても身近に感じられます。
その一方で、言葉という音を使って会話をすることが少なくなってきたようにも感じます。
日本語の美しさ、音の響き、方言ならではの言いまわし・・・。
新しい時代のツールを使いつつも、対面で相手の存在を感じながら、声の響きから理解しあう、そんな時間も大切にしていきたいものです。
そして、“温もり”や“吐息”“感情の動き”“視線”は、身体があってこそ感じられます。
対面で行うコンサルテーションを大切にしている理由は、こういったことも含まれると思います。
ただ、側にいてくれるだけで癒される存在感。
人の声から響く音は、ハートにリラックスを与えてくれます。
愛あるやさしい眼差しは、なにものにも代えがたい“つながり”を感じさせてくれます。
イクイリブリアムボトルをシェイクするとき、144000ナディ(自律神経の経路)が活性化されて、私たちの細胞は共鳴振動を起こします。
少し色が変わっていたり、ぶくぶくと泡が溢れていたり、そこに在る実物のイクイリブリアムボトルは、一律的な美しさではなく、時間や季節を通して育まれたハーブやクリスタルのエネルギーが、形あるこの身体に共鳴作用を起こし、変容を促し、コンサルテーションを通して思考に知覚の理解を与えてくれるという、すばらしい気づきが得られるのです。
一瞬を切り取った写真では得られない、対面の美しさ。
私たちが「なにに対して、どのような質も持って関わるのか?」ということの大切さを思いださせてくれます。
『リビング・エナジー』Vol.9(p50)
【ただ、側にいてくれるだけで癒される存在感】
いつの時代にも、こういう存在のまわりに人は集まるものなのでしょうね。
pari 記