人生には、もしあの時あのことがなかったら、と思われるような瞬間があるものです。
もし、あのとき自分がもう少し物事がわかっていたら、とか、もしあの時あのことが起こっていなかったら、とか。
もしそのときそれがなかったら、そうしたら、別の人生が展開していたのでしょうか?
人生には「IF」はない、という言い方もあるようです。
あるいは、じつは、パラレルワールド、無限の並行宇宙が展開しているのだ、というような説もあります。
深く信じた(思い込んだ)ことが起こるのだという説もあり、すべては決まっているのだという説もあります。
こういう信念はそれぞれ異なっているように思えます。
でも、どうなんでしょうね?
もしかして、人生はすべてを呑み込んで、すべての思い込みがそれなりに正しいのだということになるのかもしれませんね。
オーラソーマの創始者ヴィッキー・ウォールの幼年期に起こったことは、いかにも不可避的であり、運命であるとしか言えないような気がします。
もしヴィッキーさんが、もう一度まったく同じ人生を生きられるチャンスを贈り物として与えられたら、彼女はそれを受け取るでしょうか?
そういうことを望む人もいるのでしょうか?
それでも兄や姉は、定期的に父に会いに、家に戻ってきていました。
私の子供時代に暗い影を落とすことになった事件が起こったのは、そんな日々のことだったのですが、なんと悲しく皮肉なことでしょう、そうした不幸の引き金を引いたのは他でもない、私をもっとも愛してくれていた姉だったのです。
ある日のこと、彼女といるとき、私は「ママがね、こう言ってね」とか「ママがね、こうしたの」とか、くったくのないおしゃべりにうつつを抜かしていたのです。
というのも、その当時、私はまだ彼女を母親だとばかり思っていましたから。
んな私が突然、姉にこう言われたとき、どんなに興味をそそられたか想像してください。
「あの人はね、お母さんじゃないのよ。
言われたとおりにしなくたって、いいんだから」
その時はそれで終わりましたが、その言葉は、私の頭にしみ込みました。
それからしばらくたったある日、ささいなことで、継母との間に衝突が起こったのです。
何についてのことだったのかも、もう思い出せないほどささいなこと、何か私に手伝ってほしいとか、そんなようなことだったのですが、私たちは、もう後戻りできないところにまで来ていました。
隅に追い詰められた私に、数日前の記憶がよみがえり、私は挑むように彼女を見据え、こう言い放ったのです。
「あんたは、お母さんじゃないもん。
言われたとおりにしなくたって、いいんだから」
長い沈黙がありました。
ブルーグレーの瞳が鋼鉄に変わり、その瞬間、私の後ろで、地獄の門ががしゃんと音を立て、その時から、すべてが変わりました。
幻想はこっぱみじんになり、私は彼女のあらゆる欲求不満と憎悪のはけ口となったのです。
それからの私の生活はまさしく、エリザベス・バレット・ブラウニング(イギリスの女流詩人1806-61)の言うところの、「涙が、私の人生の彩りをすべて洗い流してしまった」でした。
継母は、その残忍さで、自分の目的を果たしたのは間違いありません。
それは、私にとって学びの時でした。
今でこそ私は、彼女の行動の根本にあったものに触れ、それを理解することで彼女を許すことができるようになりましたが。
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p10-12)
『オーラソーマ』:「1 愛しのお父さん」から
うーん、誰が悪いわけでもありませんよね。
そのドラマは、その役者が揃ってはじめて展開するのですから。
ヴィッキーさん可哀想、でも継母のお母さんだって可哀想ですよね。
そうやってドラマは紡ぎだされるんですよね。
pari 記