糖尿病と愛(糖尿病のエネルギー分析)
肉体の病気は、何らかの意味での微細身のエネルギー的アンバランスが原因となって物理次元に現れるということはよく耳にすることです。
どんな肉体的病気にも、それ固有の精神的および感情的不調和が秘められているということでしょうか。
「病むこと」は、人間の避けられない苦しみとして仏陀があげた「四苦」(生老病死:しょうろうびょうし)のひとつですね。
つまり人間は大なり小なり必ず病むものだ、ということでしょう。
そのことは微細身の置きなおせば、人間のエネルギーバランスは大なり小なり必ず崩れるものだ、ということになるでしょうか。
なにかあまりにも当たり前で、ちょっと悲しいですが。(-_-)
最近は人間も、というか日本を含む一部の国々では、とても長命になりましたね。
それにもかかわらず、いや超高齢化社会であればさらに、病気とその医療という問題は社会問題の一大領域を構成していると言えます。
ところで最近ではさまざまな病気、特に内分泌系の病気は、それがどのようなエネルギーバランスの乱れに起因するものなのかを研究するような分野もあるのですね。
今回ご紹介するのは、そのような最先端の医療分野からの報告です。
メアリー(中村裕恵)さんは、対症療法がメインの日本の現代医療の中で、補完医療とカウンセリング(漢方療法、ホメオパシー、アロマテラピー、フラワーレメディ、オーラソーマ)の方向へと研究を進められている方です。
ではメアリーさんの記事「「微細解剖学への旅(2)~内分泌系~」」から、今回は「糖尿病のエネルギー分析」のなかの「愛に関する問題」をご紹介しましょう。
——————————————————————– 糖尿病のエネルギー分析(2)
愛に関する問題
糖尿病患者の一般的な問題は、「糖」を「愛」の代用品にしてしまうことからはじまります。 甘いものは、生活あるいは人生が私達にとって「甘い」ということを保証するための代用品なのです。 糖尿病患者の糖をむさぼりたい願望と、糖を消化し細胞に吸収することが出来ない背後には、愛を受け入れそして吸収していくことについての不能とともに、愛に対する満たされない願望が象徴されています。 糖尿病患者は、典型的に、「代用食物」で暮らすことを余儀なくされているのです――代用物とは、すなわち、本当に欲しているもの、すなわち「愛」のためのものです。 糖尿病は全身の過度の酸化により、結果として昏睡を招きえます。 我々は攻撃のシンボルとしての酸という存在を獲得しています。 愛と攻撃の間、糖と酸の間(そして神話的には金星と火星の間)に両極を見つけます。 体は愛がないとsour(酸性・不機嫌・意地悪)になることを警告します。 そして、放置することで、いっそう、ぶっきらぼうで無遠慮になり、自分自身にさえ絶えがたく許容がなくなっていくのです。
愛を受容することができる唯一の人々は同じく愛を与えることができるでしょう――しかし糖尿病である人々は、愛を吸収されない糖として尿中に手放していまいます。 糖尿病患者は(甘いもののかたちで)愛を欲し、自分自身を信頼できずに、行動的に愛を追いかけるのです。 「私は本当にまだ何も持っていない!」。 そしてまた、彼らはなおさら愛を切望するのです。 「私は本当にそうするべきだけど、してはいけないのだ!」。 しかし、自分自身を愛することをまだ学んでいないために、獲得できません。 そしてまた愛が彼らを通り過ぎていくのです? (’The Healing Power of Illness’by Thorwald Dethlefsenより)
『リビング・エナジー』Vol.5(p61) ——————————————————————–
なるほど……。
「糖尿病患者は(甘いもののかたちで)愛を欲し、自分自身を信頼できずに、行 動的に愛を追いかける」……。(-_-)
実際の個々人の病気にはさまざまの要因が複雑に絡まり合っているのでしょうが、しかしその本質を抽出するなら、わずかこれだけのことなのですね。
愛が不足している……そしてそれを現れのなかに求める……。
pari 記
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