子どものころ不思議だと思ったことは、その人の人生を最後の最後まで導く問なのかもしれません。
ラハシャ博士は子どものころ、人々はどうして互いに愛しあって調和的に生活しないのだろう、と思ったそうです。
これは、そのように言葉で表現できるかどうかはわかりませんが、おそらく実際は世界中の大部分の子どもたちの心のなかの密かな問だったのではないでしょうか。
ただ、その問が人生をつうじて維持されることは、めったに起こらないのかもしれません。
やがて子どもが成長し、世間に出て、そこでのサバイバルに揉まれているうちに、いつの間にか小さな子どもだったときのその問は忘れられ、世の中の常識のなかに埋没してしまうのだろうと思われます。
でも、幼いころのこの問は、この惑星に生を享けた子どもたちにとっては本当に自然で、本当に不思議で理解不能のことだったのではないかと思われます。
先に生まれた先人たちがことさらバカだったわけではありません。
なぜなら、あとから生まれてきた私たちも、先人たちとそれほど変わらない体験をしてゆくうちに、やはり同じようなマインドでの努力に巻き込まれ、同じような苦しみを創造することになるからです。
そして理性的なそうした努力の彼方には、幼いころに知っていたあのような信頼と安らぎはけっして待ってはいない、とわかったときには、もう人生の時間は終わるころだったりするのでしょう。
ではラハシャ博士のインタビュー記事「空っぽなハートの気づき」から、そのあたりに触れた部分をご紹介しましょう。
私自身の体験になりますが、子どものころ、こんなふうに思ったものです。
人々は、どうして互いに愛を、調和を持って生活しないのだろうかと。
なぜなら、子どもは愛を知っているからです。
それから幼少期、私はとてもトラウマ的な体験をして育ちました。
どうしたら歓びや愛のなかに戻ることができるのかと、そんなふうに思っていました。
そして、たくさんのまわり道もしましたが、医師としてこれらのまわり道は、とても助けになりました。
どうしたら人々は健康になれるのかを医師として探求しました。
それからセラピストとして、なぜ人々は精神病をわずらうのかを研究し、そして最終的にスピリチュアルティーチャーとして、人々が自らの自然な質に目覚めることを、どう手助けすることができるのかを日々のワークとしています。
また、私自身の経験から、自分の身体という家に家具を再配置するということ。
私の精神、そしてマインドを再配置することは、よいエネルギーを作りだし、とても助けになるということを発見したのです。
ですからセラピーそのものは、とても役に立つのですが、それらが私を自由にすることはありません。
でも、自由ということに関していうならば、みなさんが探し求めている自由は、そもそもセラピーの領域でのマインドや、精神のなかに探し求めることはできないということです。
カウンセリングは人々の物語だけに焦点をあてがちです。
そして、ときにそれはよい人生を送るための戦略を与える手段として役立ちますが、最終的にはスピリチュアルな探求する人々を満足させることはできないといえます。
それは明らかなことで、スピリチュアルな運動の最先端でもあり、世俗的な満足感が満たされるカルフォルニアのような都会に住む人々は、じゅうぶんなお金と大きな家を持ち、立派な車や、すてきなパートナーや配偶者がいるのにも関わらず、「なにかが欠けている、なにかが足りない」と感じているのです。
自由を探し求める多くの人々に欠けているもの…それは瞑想であり、内側に入ることです。
この肉体やマインドを超えたところにある真実、それを求めて私はインドに行ったのです。
そして、自分の人生とともに生きるために、新しい戦略を見つけることをサポートするカウンセリング「ハートからのカウンセリング」は、根本にある問題を、宇宙の叡智につながることを通して解決する手助けをしていきます。
そのつながり、その広大さのなかで、特に私たちすべてがつながることができる聖なる叡智が存在する空っぽのハートのなかで、平和であるために、
愛を発見するために・・・そして同時に物理的、物資的な豊かさを発見するために、なにが必要なのかがわかるでしょう。
「空っぽなハートの気づき~
ハートからのカウンセリングにおけるハートの機能」より
『リビング・エナジー』Vol.9(p11)
私たちは一生、幸福を、安らぎを求めて頑張り続けるのですが、きっとその意図は正しいとしても、それを求める場所を間違えてしまうのかもしれませんね。
pari 記