ヴィッキーさんが語るヒーリングの源泉とは?

私たちは自分が生きていることを疑いません。

ま、当たり前ですよね。

こうして呼吸もしてますし。(*^_^*)

そして、自分はこの身体のなかで、あるいはこの身体として生きている、というふうに考えています。

で、自分の身体のまわりにあるもののことを環境と考えて、自分とは区別します。

ま、見た目も明らかに、自分とそのまわりの環境は動きから見ても区別がつくし、明らかに別物と見えますしね。

でも、これって、ちょっと考えてみるとよくわからなくなったりします。

というのは、じゃあ、まわりの環境はなくても自分は生きられるのか、と考えると、これはとうてい無理です。

だいたいまわりに空気がなければ、息をすることすらできなくなってしまいます。

では、まわりに空気があれば、それで自分はまわりとは別の独立した存在として生きられるのでしょうか?

自分が生きるためには、呼吸をすることは絶対に必要ですよね。

じゃあ、その呼吸しているのはまわりの環境とは別の独立した存在としての自分なんでしょうか?

もし、まわりの環境とは別の独立した存在としての自分が呼吸しているのなら、その呼吸をやめることだってできるはずですよね。

あなた、呼吸をするのをやめられます?(*^_^*)

限度までは息を止められるかもしれないけれど、限度を超えたら否が応でも呼吸が始まってしまいますよね。

これ、呼吸って私たちがやっているものなんでしょうか?

もしかして、全体が私たちをつうじて呼吸しているんじゃありません?(^_-)

それまで無理をして息を止めていたのなら、息をしたらホッとしますよね。

必要なところにエネルギーが流れたからでしょうね。

私たちは分離した個別の自分が生きていると思っているので、いろいろ無理をしたり、力んだりしてますよね。

その無理や力みが全部取れたら、エネルギーが融通無碍に必要なところに動くでしょうね。

そのとき、全体が全体として楽に流れているので、その状態のことを人間の言葉で、「癒やし」とか「ヒーリング」というのかもしれませんね。

「ヒーリングの源泉」について、ヴィッキーさんがどんな見解を持っていたのかを彼女の言葉で語っていただきましょう。


23 ヒーリングの源泉

神の創造物は、すべて、花も森も大地も海も、あらゆるものがヒーリングの源泉となりえます。
そういった生命エネルギーは、それぞれの意図と力を持っており、またひと口にヒーリングと言っても、その領域は広大で、さまざまな側面を持ち、あらゆるレベルでの理解につながっています。
たとえば、腕のたつ庭師は大地を癒し、植物を世話し、惜しみない愛を創造力とともに大地に注ぐという独自の役割を演じるのです。
昔の薬屋は、人間や動物を癒すために植物の生命力を変容させ利用する、植物界の錬金術によく通じており、それを実際に活用していました。

植物が行うヒーリングには、さまざまな種類があります。
あるものは、その可憐な美しさで見る者の目を楽しませ、新しい人生の約束や希望をもたらし、気持ちを浮き立たせます。
あるものは、永遠の命を得てエッセンスとなり、またあるものは、チャクラの波長と関係した色の波動によって癒すのです。

そして、見者をはじめとして、幻想のベールの向こう側を見通すことのできる人たちがいます。
いわゆる時間という概念に煩わされない彼らにとって、過去や未来は「時間のずれ」にすぎません。
彼らのそうした才能は、正しく使えば、体と心と魂の必要に寄与する、ホリスティックなヒーリングの源泉になるでしょう。

「ヒーラー」という言葉が使われるとき、普通、手を体の上に置いて癒す人というイメージがあるようです。


たくさんの人がこの分類に当てはまり、私自身、そうしたヒーリングをかなり見届けてきて、天使が彼らの手を導いているのを感じます。
けれどもヒーリングには実際、多くのレベルがあるのです。

深く聴くことのできる耳は解放をもたらし、欲求不満やつらさ、心配や深い内面の動揺を拭い去ることができます。
それは、豪快で速効性のあるヒーリングではありませんが、プロセスの発端となるのです。
愛の必要性は普遍的で、あいさつや、微笑みや、優しい触れ合いは、どれも重要な役目を演じます。
あらゆるヒーリングへと至る門は献身であり、そして門を開ける鍵は愛なのです。

『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p247-248)


 

【深く聴くことのできる耳は解放をもたらし、欲求不満やつらさ、心配や深い内面の動揺を拭い去ることができます】

しっかり、自分の思いを聴いてもらえたら、それだけで私たちは癒やされるというのは間違いないですよね。

pari 記

 

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