ボトルの中の浮遊物は?
「マイクの質疑応答」より マイク・ブース
日本のようなたくさんの工業製品に取り囲まれた(いわゆる)先進国に住んでいると、商品は何かきちんとした規格に収まるものでないと、ちょっと気持ちが落ち着かないようなところがあります。
その感覚は、たとえば、農産物などにも適用されて、曲がったキュウリや大根がスーパーの店頭に並ぶことはありません。
たとえ並んでも、そんな商品が選ばれずに残ってしまうことが続くうちに、最初から出荷元で製品規格外として選別され家畜の餌になるか廃棄されてしまうためでしょう。
でも、実際は自然界では曲がったキュウリも大根もできますし、それができないようにするにはまた何か、必ずしも“自然”でない方法が適用されているのかもしれません。
オーラソーマ製品の場合も、日本では濁ったボトルや変色したボトルに違和感を持つ方が多いのは間違いありません。
日本は、今の地球上の諸国のなかでは、かなり例外的に清潔で、無臭で、小綺麗な国だろうと思います。
それはそれで私たちが選好してきたことの結果ですが、ただその分だけ元の自然とは離れた、人工的な空間になってきていることは事実でしょうね。
けっして悪いことではないけれど、元々の自然とは違ってきている。
まあ、考えてみれば当たり前のことです。
オーラソーマの製品は、可能なかぎりナチュラルであることを意図しているので、人工的に規格品に入るような管理方法だけに突き進むことはしていません。
なのでキュウリや大根の形状よりは、その品質向上により注力するような面があるのかもしれませんね。
あるいは、製品が工業製品ではなく、それ自体が生きたエネルギーであることの方に、より注目し、努力を傾注しているというのか。
オーラソーマ社の努力が、現在の消費社会の感性とは少しずれたところに傾注されていることを感じさせられます。
では「マイクの質疑応答」から、そのあたりの話題に触れている部分をご紹介しましょう。
—————————————————————— 質問 ボトルの中の浮遊物は?
マイク あなたが手にするのは生きたハーブの入った製品です。 それらの生きたハーブは、ある環境の中で沈殿します。 沈殿は専門用語ですが、薬草学では不安定な状態の物質の中からあるものができてくることを意味します。 ハーブが溶液の中から出て沈殿することがあります。 それは植物原料や抽出液やフラワーウォーターの種類によります。 それがボトルの中の浮遊物として現れる沈殿となることがあるのです。 神秘的な製品を扱うときのありがたくない一面に、それが予測不能だということがあります。 もし私たちが化学合成や石油から出来た原料を使っているなら、製品に市場で期待されている一貫性と確実性を持たせることは可能です。 けれど、もしあなたが自然と関わり、植物原料からできた製品を作るなら、製品の一貫性を説く哲学とは全く異なった哲学を持つでしょう。 ですから私たちは本当に、あらゆる対消費者問題に直面しています。 これらの困難さの大部分は、これらの製品がその人が必要としているものに合わせて変化することからできており、それは1984年以来変わっていません。
人々がヴィッキーに電話を掛けてきた時、彼女がよく 「そうね、それがあなたの必要としていたものだったのよ。きっと」 と言っていたのを思い出します。 その人が例えばイエロー/ゴールドを買って家に戻るとイエロー/グリーンに変わっていた、というような時にです。 ボトルは私たちの必要に応じて変わるというのが彼女の見方でした。 下の色が上方に現れるということもあります。 ボトルになかった色が現れるということもあるでしょう。 ヴィッキーは、しばしば変則のボトルの方が人々にとってより魅力的であることに気づきました。 彼女が展示会に出すと、それらのボトルはより早く売れました。 何故ならそれらは人々が必要としていたものだったからです。
もう一つよく起こる現象として、もしあなたがコンサルタントでボトルのセットを持っていて、その中の一本がなんらかのかたちで変化したとします。 そんな時、次に来たクライアントがそのボトルを選ぶということがよくあります。 それはあたかもセットがその人の必要に合わせて自らを調整したかのようです。
(ここである生徒が彼女のボトルの中のハーブが、まるで生命を得たかのように文字の形や絵を描いたことがあるとコメントしてくれる)
ものごとをあるがままに受け止め、起こったことを否定する代わりに、起こった理由を見出そうとするようなある種の哲学に向かう運動を私が奨励できたら、あらゆるレベルで大きな助けになるでしょう。
『リビング・エナジー』Vol.2(p79-80) ——————————————————————–
「ものごとをあるがままに受け止め、起こったことを否定する代わりに、起こった理由を見出そうとするようなある種の哲学に向かう」……。
新しい時代の傾向は、そんなところにあるのかもしれませんね。
pari 記
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