束縛と解放 そして、マンダラ(バリー・スティーブンス)

オーラソーマの原理は二元性です。
二元性とは、顕現の世界の法則です。

現象として意識の世界に現れるためには、変動しなければなりません。
なぜなら意識とは変化の意識だからです。
不変のものを意識することはできませんから。

そして変化するためには、その変化は対極間の振動でなければならないのです。
というのは、一方向への無限の変化は不動と同じであるか、あるいはたちまち知覚の対象から逸脱してしまうからです。

つまり、現れの世界とは多様な二極間の変動として振る舞う世界だということです。
理屈っぽく聞こえるかもしれませんが、これは事実です。

すると現象世界はさまざまな二極構造によって構成されているとも言えそうです。
この多様な二極構造をもし全体像として包含できる尺度があるとしたら、それはどんなものになるでしょうか?
その全体像が古来さまざまな「曼荼羅(マンダラ)」として描かれてきたのです。

マンダラとは、全体を何らかの観点で抽象したシンボリックな画像です。
古来さまざまな宗教で、“全体世界”が何らかの「曼荼羅(マンダラ)」として描かれてきたのはそのためです。

意識は対極に魅せられていますから、どうしてもその対極の全体像を捉えたいと願ったのでしょうね。

意識のさまざまな地図は、すべて何らかの“全体像”への試みとも言えそうです。

「易」、「タロット」、「フラワー・オブ・ライフ」……そしてオーラソーマの「カラーローズ」もまたひとつの「曼荼羅(マンダラ)」と言えるでしょう。

ここにも、「曼荼羅(マンダラ)」に魅せられて旅するひとりの人の物語があります。

そのひとは、アドヴァイタ(不二一元論)のグル、ラマナ・マハルシの言葉が忘れられないようです。
二元性は、一元性に憧れるのでしょうね。

では、バリー・スティーブンスさんの「パーソナル・ジャーニー」からの抜粋をご覧ください。

 


何年か前、私は何人かの友人と共にスコットランドの西海岸で暮らしていました。

私たちはいろいろなことをしていましたが、マンダラを描くこともそのひとつでした。

一枚のマンダラの裏に、友人がこんなことを書きました。

無限から無限へと 黄金の鷲が飛ぶ。
そしてさらに、
神の御光のなかで輝く あなたは美しい、そして私も。

私はよくこの言葉を思いだします。
というのも、この言葉は深いレベルでのエネルギーや感情の質を伝えてくれるからです。
私が巡り合った2、3の言葉や一連の詩も、同じ心境にさせてくれます。

とくに悟りを得た人の言葉は、私たちの意識を自由へと高めてくれます。
それは、ときにはインドで「サット チット アナンド」といわれるもので、普通、意識と至福の状態にあること、と訳されます。

もうひとつ数年前に出会って決して忘れることができない言葉は、ラマナ・マハリシのものです。

彼は、
束縛と解放というのは、単に言葉上の概念にすぎない。
 自己の他には、どんな現実もない。
 ただ真我だけが存在する

と言っています。

それが、マンダラとどんな関係があるのでしょうか。

マンダラは、拡張された瞑想的な意識状態で創作されるものであり、それについて何かを述べることは、無限性を伝えようとするものに限界を与える危険を犯すことにもなりかねません。

けれども、この記事の文脈の上でなら、それも許されるでしょう。
さらにひとつ、「私は誰か」(ジーン・クラインとの会話)という本から引用します。

「偉大な芸術は、何もいわない。
 それは何の目的も意図も持たない。
 それはただ天からもたらされるもの。
 目的を持たないことに、その意義がある」

世界のどこででも、あなたはあれこれの形のマンダラに出会うでしょう。



マンダラは普遍的な芸術の形であるだけでなく、あらゆる自然のなかにも見られます。

宇宙そのものがマンダラだとさえ言えるかもしれません
花や太陽、月、友人の目の虹彩を見てみれば、また、原子を何百倍にも拡大して見てみれば、そこに非常な美しさを持った円形のイメージ、マンダラを見いすことができるでしょう。
……
この数年、私はいくつものマンダラを描き、今だに描き続けています。
時にその衝動は超越へと向かい、「ピュア・ライト(純粋な光)」のようなマンダラとして、形を持たない抽象的なイメージとなります。
…… これが私の「サダナ(道または修行)」なのです。

『リビング・エナジー』Vol.1(p39-40)



バリー・スティーブンスさんは、何とかして一元性を二元性の現れのなかに捉えたいのでしょうね。
すべてを映しだす、マンダラならそれを捉えられるかもしれない、と。
それを統合できれば、新たな風景が開けてくるかもしれない、と。

pari 記


 

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