「原因」と「結果」の法則
いわゆる精神世界本というのにはずいぶん手を出したような気がします。
あるころから、何やらちょっといかがわしい雰囲気の本ばかりが目につくようになっていたのかもしれません。
どこか遠くの世界、遥か離れた星々の世界、そんな夢ばかり追っていたような……。
とにかく、自分に身近な「ここ」ではないところを追っていたのでしょう。
だから、チャネリング本とかご神示とか、日常を“超えた”、“彼方”からの情報ばかりを追っていたと思います。
だから、確かに“精神世界本”にはずいぶん手を出したのですが、今で言ういわゆる“自己実現”風味の本には、あまり興味がわきませんでした。
というか、努力ということにはどうも興味を持てなかった、というのが正直なところかもしれません。
どうも、あまり足元を見る気にはなれなかったようです。(*^_^*)
ところがあるとき、本屋の棚にこれまで見たことがなかった本の背表紙が見えて、何気なく手が伸びていました。
今思うに、もしかすると若草色のその薄い本の『「原因」と「結果」の法則』という背表紙の文字に惹かれたのかもしれません。
その薄さで『「原因」と「結果」の法則』がわかるのなら、まあ覗いてみてもいいか、くらいのノリだったのだろうと思います。(^_-)
でも、ちょっと覗いてみたその文字面は、思わず襟を正したくなるような、なにかとても静かな落ち着いたたたずまいを感じさせるものでした。
それまであまり自分が手を出したことのない“自己実現”ふうの本のようでしたが、なんとなくレジまで持っていった記憶があります。
ちょっと立ち読みしてみましょうか。
——————————————————————– 私たちの人生は、ある確かな法則にしたがって創られています。 私たちがどんな策略をもちいようと、その法則を変えることはできません。
「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」という古来の金言は、私たちの人格のみならず、人生全般にあてはまる言葉です。 私たちは、文字どおり、自分が考えているとおりの人生を生きているのです。 なかでも人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。 植物は種から芽生えます。 それは、種なくしてはあらわれることができません。 そして、私たちの行いもまた、内側で密かにめぐらされる思いという種から芽生えます。 これもまた、その種がなければあらわれることがありません。 意識的に行うことでも、無意識のうちに行うことでも、ひとつとして例外はありません。 行いは思いの花であり、喜びや悲しみはその果実です。 そうやって私たち人間は、自分自身が育てる、甘い、あるいは苦い果実を収穫しつづけるのです。(p12-13) 『「原因」と「結果」の法則』 ——————————————————————–
ふーむ。(-_-;)
ちょっと簡単には言葉が出ないと言うか……。
なるほどなぁ。
pari 記
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