ヴィッキーさんのお父さんは生業の仕事としては肉体労働者だったようですが、もう一方でユダヤ教の神秘主義カバラの継承者であり、ヒーラーでもあるという一面を持っていたようです。
癒しの術というか、今でいう医者の役割を兼ねていたんでしょうね。
ヴィッキーさんが家にいた頃は、医者にかかったという経験がないようです。
それはそうですよね、自分の父親が医者なら、誰も他所の医者などにはかからないでしょう。
それでなくても家庭の父親に非常に権威があった時代ですが、それ以外の意味でもヴィッキーさんのお父さんにはとても権威があったのでしょう。
それにイギリスにかぎりませんが、昔は生活的に決まり事と伝統の重みが大きく、とても【型】にはまった生活をしていたみたいですね。
カレンダーに応じて、判で押したような生活習慣を保っていたのだと思います。
現在は新しい時代への“渡り廊下”のような時代ですから、すべての【型】が崩壊していっているのでしょうが。
ヴィッキーさんの物語の特にこの最初の部分は、わずか百年ほど前のことなのに、まるで“覗き眼鏡”で別世界を覗くような印象があります。
ヴィッキーさん自身にとってもまさに掌中の珠のように大切にしていた記憶なのだと思います。
これは、私の初めての「過去生回帰」つまり、現在と関係のある過去を知る体験だったのです。
継母が家事の天才だったのに対し、父の本分はヒーリングでした。
うちでは、医者を呼んだ覚えがありません。
私たちがまだ小さいうちから、父は私たちのあらゆる必要を見て取って、あらゆる病気の世話をしていました。
例えば私は、扁桃腺がとても弱かったのです。
あるとき、それは炎症を起こし、私はあまりの痛みに惨めに涙を流していました。
今でも温めた酢の酸っぱい匂いを嗅ぐと、父が丹念に茶色の紙を折り、その折り目に酢を注ぎ、それをリネンのハンカチで包んで、その上に熱いアイロンをかけていた姿がよみがえってきます。
それから父は、そのハンカチで私の喉の周りを丁寧に湿布したのですが、次の朝には、もう痛みは消えていました。
それから何年も経ったのち、私はどうしてその処置が功を奏したのか、初めて理解しました。
その起源は、古代の伝承にあったのです。
当時のクラフト紙は、木のパルプをひいて作られており、紙の中に実際に木の繊維が透けて見え、さまざまな鎮痛剤の元となるエッセンスや樹脂が、豊富に含まれていました。
それがアルコールや酸に溶け、熱を加えることで、さらにその効果が倍加されたのです。
私は来る日も来る日も、週末になるのを待ち焦がれていました。
それは、愛する父が、私をさまざまな遠征に連れ出してくれる日だったのです。
当時の男の人は、厳格な時間割で生きており、私の父もその例外ではなく、私は、自分たちがいつどこへ行くのか、何をするのか、すっかり分かっていました。
土曜日の朝は、床屋へ行くのが決まり。
当時の男の人は、かみそりで髭を剃ってもらっていました。
父はとても美しいブラウンの瞳を持ったハンサムな人で、そのまなざしは暖かくて表情に富み、相手のハートを射抜くようなところがありました。
人を見るときには、まるで二つの祭壇にキャンドルがともるかのよう。
大きくはないけれど、はしばみの実のような爪のそろった美しい手を持ち、肩幅は広く、腰は細く、姿勢も良く、人づてに聞いたところによると、彼は八十五で亡くなるまで、少しの贅肉も身につけなかったとのこと。
彼の身のこなしには、王者の風格がありましたが、にもかかわらず、彼はつつましい穏やかな人で、声を荒げた姿は、一度も見たことがありません。
真っすぐなまなざしだけで、事は足りました。
常に、しみひとつない服を着て、すべてにわたってきちんとしており、自分の身体を神殿として敬意を払っている人でした。
子供たちは皆、心から彼を愛し、尊敬していたのです。
床屋では髭を剃るのが普通でしたが、髪を切ることもありました。
その間私は小さな木のベンチにぽつんと座らされ、ピンク色の鼻先だけ残して父の顔が熱いタオルにくるまれていくのを、息を呑んで見つめたものでした。
果たして息はできるのだろうか、とそのたびにはらはらし、タオルがどけられ、父の顔が無傷で現れるのを見ると、本当にほっとしたものです。
それから床屋は、氷のかけらのようなもので父の顔を撫でるのですが、それは今になって思えば、ミョウバンでした。
ミョウバンには毛穴を閉じ、肌を引き締める作用があり、今日でも、たくさんのアストリンゼント・ローションに使われています。
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p15-17)
ヴィッキーさんは、お父さんには「王者の風格」があったとおっしゃっています。
十六歳で生別してから一度も会ったことがないお父さんですから、子どものころの記憶をそのまま大切になさっていたでしょうね。
記憶のなかのお父さんを、映画の場面のように再現なさっているのだと思います。
pari 記