「すべての人をはっきり見る」

「すべての人をはっきり見る」
『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』:「7 じっとたたずむ時」から                         ヴィッキー・ウォール
        ヴィッキーさんが子供のころから持っていたオーラの知覚は、前触れもなく突然起こるものでした。
しかし今やいつ起こってもおかしくないと言われている完全失明に備えて、ヴィッキーさんはその能力を自覚的に訓練していきます。
どうやらその心の視力は、ヴィッキーさんの肉眼の視力が落ちてくるに応じて高まっていったのでしょう。
ヴィッキーさんにとって人との応対はそれ以降、以前とはまったく違う経験になっていったようです。
単純に想像すると、普通の人にはないオーラの知覚があるということは、通常人に対する優越であるようにも思えます。
もちろん、そういう側面がまったくないわけでもないでしょう。
しかし、それはごく短い期間のことかもしれませんね。
その世界の通常人が持っていないような能力は、その次元との別れを暗示している可能性もあるのではないでしょうか。
おそらく、そのような能力を持っていては、その世界を本当の意味で“楽しむ”ことはできなくなるでしょう。
つまり、それはその世界には属していないということかもしれませんね。
        ——————————————————————– 子供のころからずっと、オーラを見る能力はあり、それは私の血筋が与えてくれた天賦の才だったのですが、それがどんな意味を持つのか、当時の私にはまだ十分に理解できてはいませんでした。 八歳のときに、学校の友達にあざけられて以来、それは胸の奥にしまい込まれた秘密になっていたのです。 オーラの知覚は、前触れもなくいつでも起こり、ときには会話の最中にも起こることがありました。 私はいつも、怖れから真面目に取り合うことをしませんでしたが、この才能は、人に騙されそうになったとき、状況を見通すのに大いに役立ってくれたことも確かです。
そして今、この能力を十分に使うようになってからは、人との関係で、先入観が問題を見る邪魔をすることはなくなりました。 言葉や服装や見かけは、何の意味も持たなくなり、その内側の本当の人間から気をそらすことは、もはやありません。 オーラを見るときには、大金持ちも道路掃除夫も同じ土俵に立たされ、あらゆる見せかけをはぎ取られるのです。 地上の基準は、私の語彙の中では意味を持たなくなりました。 以前は、人々はまるで「木が歩いている」ようだったのですが、今や私は「すべての人をはっきり見る」(マルコによる福音書八章、二四・二五節)ことができるのです。
人を見たり、人と話をしたりするのは、今やまったく違う経験となりました。 私は、相手の感情や考えに十分に気づき、人をありのままの姿で見ます。 そして徐々に、人の秘かな考えや必要が、はっきり分かるようになりました。 何気ない会話の最中に、時の初めにまでさかのぼり、その人が誰で何をしていたか、その姿をかい間見ることもあります。 それは、ろうそくの炎がゆらめくようなほんの一瞬のことですが、ときには、その状況すべてを体験することもあり、場合によってはひどく心を乱されます。 ある人と深い話をしているときに、ある過去生が映画を見るように浮かんできたかと思ったら、彼の今抱えている問題が、その過去生に根ざしたものだった、と分かったこともあります。
ですから、私がつかの間に見た太古の書記が、今のところ何をどう表現していいのか分からないながらも、書き言葉の持つパワーによって、自分の思想を表そうとしている、この現代の言葉の愛好者とつながりがあるというのも、十分にありうることなのです。
        おのれ自身に真実であること、それがなによりだ。               ウィリアム・シェークスピア『ハムレット』
      『オーラソーマ 奇跡のカラーヒーリング』(p65-66)
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【私は、相手の感情や考えに十分に気づき、人をありのままの姿で見ます】。
【そして徐々に、人の秘かな考えや必要が、はっきり分かるようになりました】……。
こういう状態は、おそらく例外的な状態で、たぶん、このような状態を長く続けられる人は誰もいないかもしれませんね。
たとえば、高校生の能力を持ちながら、いつまでも小学生のクラスにとどまれる人がいないようなものではないでしょうか。
pari 記
       
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