自分で自分を抱きしめてあげる!

自分で自分を抱きしめてあげる!  
「私のオーラソーマジャーニー」より  江田文江
        人間として地上に生まれてくるということは、どんなことなんでしょう。
赤ん坊が生まれてくる状況を、ちょっと想像してみましょうか。
「魂」の存在を信じるなら、お母さんの子宮の中の受精卵が充分に育まれて出産の準備ができたとき、そこに転生の記憶を携えた「魂」が入ってくるということになるわけでしょう。
しかし、必ずしも魂の転生という概念が必須というわけでもなく、精子のDNAと卵子のDNAに刻み込まれた単なる記憶とその展開の可能性と考えることもできるでしょうね。
その場合は、出産によって地上に誕生した物理的身体は、単にまったく新しいひとつの体験母体、精神身体機構だと言えるでしょう。
この精神身体機構は地上に現れてから二年ほど経つと、意識的部分と形態的部分の統合ががほぼ完成するでしょうね。
「魂」的な言い方では、魂と肉体の“自己同化”が完成したということになります。
それまでは身体が動いても、それが意図と連動しているとは感じられなかったでしょうが、意図すればそれに応じて身体が動くのが分かるようになります。
そうすると、見かけの上でお母さんの身体とは切り離された別の身体があるわけですから、それが“自分”なのだ (@_@)と、閃く瞬間が訪れるでしょうね。
そしてお母さんから、「こんにちは、赤ちゃん、私がママよ」と教わるわけです。
自分が“赤ちゃん”というものであると知り、やがて自分の名前が“誰それ”だと教えられるのです。
こうして、人間としての人生が始まるのでしょうね。
たくさんの期待を負って、その期待に答えることで愛されたいと望むわけです。
そしていつか、他者の期待に応えることに疲れ、他者の期待に応えなくてもいいのだ、自分で自分を愛することができれば、といった思いに至るのかもしれませんね。
今回は、江田文江さんの「私のオーラソーマジャーニー」から、自分が自分を愛してあげる、といった気づきに関係するあたりの部分をご紹介しましょう。  
         ——————————————————————– 自分自身を癒せるのは、他人ではなく、自分です。 けれど、人はひとりきりでは生きていけません。
自分自身のすべてを認めてあげること。 それが、いかに必要だったか。 自分自身を信頼することは、他者をも信頼することに通じました。 自分を愛せて、はじめて自分以外の誰かを愛せるのかもしれません。
私には娘がいます。 娘が小さな頃、特別なおまじない、「ギュウ」をしていました。 娘が私に「ママ、ギュウして」と言ってきたら、二人で「ギュウ~ッ」と言って抱きあうのです!
娘はきゃっきゃっと照れ笑いしながら大喜び。 やがて、安心して私の胸の中に身を委ねていました。 私自身も安心でき、癒されていることを発見しました。 そこには、とっても暖かい幸福感がありました。
「私は貴方のことを心から愛しているの。  その愛に包まれた私のことを、私自身も愛している」 そして、愛の暖かい光が身体の中心から広がっていくのです。
ボトルのオイルを身体にぬるとき、ポマンダーやクイントエッセンスでワークするとき、この「ギュウ」を思いだします。 身体にオイルをぬる行為は、ある意味、私には祈りに近い、儀式のようなものです。 一日の中で、たった数分間でも、自分だけの時間を作りワークをすることは、自分自身をとても大切に扱っている行為のように感じました。
 自分で自分を抱きしめてあげる!  私は愛される価値のある存在だった!  ボトルと私が共鳴している。
ときには暖かい愛で包み、ときには叱咤し励ましてくれ、ときには一緒に泣いてくれる。 優しい、優しい時間に、自分の中の女性らしさが目覚めていくような充足感が満ちていきます。
そしてポマンダーやクイントエッセンスのワークを通して瞑想をする。 静かな、静かな空間。 時間の流れの感じ方が変わっていくのを感じます。

                 『リビング・エナジー』Vol.6(p105) ——————————————————————–
なるほど……。
人間の身体を“自分”というものだと思い、身体の見かけが外界から分離している以上、その“自分”には全体から分離した個別の運命がある、と信じることからすべての苦難が始まるようでもあります。
人間である人生を信じるかぎり、この愛による条件付けを回避することはできません。
ボトルはこのしばしの人生を、癒してくれるのですね。
pari 記

Twitterボタン Twitterブログパーツ