ヴィッキー・ウォールとオーラ・ソーマの霊に捧ぐ・2
では、昨日の続きをお楽しみください☆
————————————————————— ヴィッキー・ウォールとオーラ・ソーマの霊に捧ぐ その2 「下積み時代」(2003年7月)
●ヴィッキー・ウォールの生涯
ヴィッキーは1918年にイギリスで生まれました。 彼女の少女時代は、ディケンズの言葉でいう最上のとき、最悪のときでした。 彼女の父親との関係は並外れて深いものであり、おそらく彼女の全生涯での最大の宝物でした。 しかしまた、この関係は厳しい試練に晒されてもいました。 彼女の父親は肉体労働者であると同時に、ユダヤ教ハシディズムの霊的伝統でのカバラのマスターでもありました。 彼女は彼の七番目の子供であり、父親も同じく七番目の子供でした。 このことで彼らは生の隠された神秘に対する深い感受性を共有していました。 霊的な教えをもっと学びたいというのがヴィッキーの大きな望みでしたが、女性であるためこの伝統の中ではそれは不可能でした。 しかし彼女の父親は、彼女が植物や自然の世界に関する内なる感受性と知識を発達させることを助けることができました。彼は彼女をロンドン中の公園に連れていき、道々出会う植物の効能を言い当てさせました。 その植物にはどんな効能があるか、それは何に役立つと思うか、と質問しました。 こうして彼は彼女の内なる天賦の才を養育したのです。
もうひとつ彼らが共有し、またヴィッキーの将来を大いに占うものとなったのは、ヴィッキーのオーラ(人々の周りに広がる色)を見る能力でした。 自分にその色が見えるため、子どもが無邪気に推測するように、彼女はそれが当たり前なのだと思っていました。 彼女の誕生日のこと、嬉しさの余り彼女はみんなのまわりの色がとても素敵だと言いました。 自分の贈り物を明かしたばかりに、彼女はみんなの笑いものにされました。 その夜、涙ながらに起こったことを話した父親から、彼女は初めて慰みを得ました。 彼は自分もその同じ色を見えること、だから彼女は間違ってはいないこと、でも世の中はまだその準備ができていなのだと教えてくれました。 彼は彼女の掌にキスをしてそれを閉じ、このことを二人の秘密にしておこう、そして世の中がその贈り物に対して準備ができるまで彼女の手の中に入れておこうと教えたのでした。
この黄金の日々に影を落としたのはヴィッキーの継母でした。 父親はヴィッキーの母親の死後、家族全員の世話をするため再婚しなければなりませんでした。 いくつか理由があって、ヴィッキーとこの継母の関係は最悪になっていました。 あまりにもひどくなったため、できるようになるとすぐにヴィッキーは家を出ざるをえませんでした。 その傷跡は深く残りましたが、ヴィッキーがこの時期を自分の魂が鍛えられた時期として描いているのはヴィッキーのスピリットの印です。
人生が彼女を最初に連れていったのは薬屋のホースレー氏のところでした。 ヴィッキーが出会ったときすでに老年になっていた彼は古い時代の薬剤師で、彼が学んだ技術は調剤師が代用医であった古い時代のものでした。 代用医とは、現代の単なる薬剤師ではなく、薬草を調合して自分で直接医薬品を作る人でした。 そのうえ、当時のイギリスとしては大規模なものだった彼の薬局は世界中から薬草を求めていました。
ホースレー氏のもとで過ごした時期は、父親との公園の散策で培った植物に対する内的な感受性を、彼女が実地に応用する基礎を与えました。 ホースレー氏のもとで、彼女はクリームやローションの作り方を学び、実際そののち薬剤師の仕事を離れてからも、小規模ながらクリームその他の製品の調剤を続け、自分の患者に使用していました。 彼女が自分の実験室と呼んでいた場所に持っていたそれらの材料こそが、後年、最初のオーラ・ソーマ・オイルを創造するための物理基盤となったのです。
薬屋の仕事は人々に直接働きかけたいというヴィッキーの欲望を満足させなかったので、彼女は王立足治療協会(Royal College of Chiropody)に通って勉強しました。 彼女はこのカレッジを卒業した最初の女性でした。 続く20年ほどの間、ヴィッキーはクライアントの足の治療をしましたが、足の世話をしながら常に魂により深い関心を寄せていました。 彼女はもうひとりの女性パイオニアで最初の頭部整骨医のひとりであったマーガレット・コックビンと、ロンドンの近くで診療所を開きました。 このふたりの関係は、これ以降生涯にわたるパートナー関係となりました。毎朝職場に向かう途中、ふたりは車を停めてその日の祈りを捧げました。
ヴィッキーの生涯は何回もの浮沈を通り抜けました。 最もヴィッキーを形成したもののひとつは、これも彼女の魂を鍛えたのですが、彼女の糖尿病との闘い方でした。 食事療法への配慮から、彼女は何年もの間インシュリンの注射を止めては医者を困らせました。 このことでも彼女はパイオニアで、あのような大量のインシュリン摂取を完全に止めたイギリスでの最初の患者でした。
ヴィッキーが結局、最初は片目を、次いで両目の視力を失ったのは、彼女の糖尿病との合併症の結果でした。 このため彼女はマーガレットとふたりで予測していたより少し早めに引退を余儀なくされました。 二人はクリニックを売り払って老後を楽しむことにしました。 二人が引退に備えて貯めたお金を失っては、住み続けるのは無理でした。 ヴィッキーの反応は取り乱して落ち込むのではなく、彼女の表現によると、それを「安逸の眠りを覚まされる」と受け取ることでした。 彼女はさらに深く祈りと瞑想の生活に入り、まだ自分にすべきことがあるかどうかを見極めようとしました。 オーラ・ソーマのインスピレーションが彼女にやってきたのは、この期間、この魂の暗夜においてでした。
そのインスピレーションは夢の中で彼女にやってきました。 後に彼女はそれを「色彩の波、かすかなため息をついて押し寄せる波」と叙述しています。 想像を絶する色彩の美でした。 そしてその波とともに「水を分けなさい」という言葉が来ました。 彼女が手を伸ばしてその色彩に触れようとすると、それはまた後退しました。
このヴィジョンは三晩続けてやって来ました。 最初の二晩はそれにどう応えてよいのか わかりませんでした。 特に「水を分けなさい」というその言葉に。 約束の地に人々を導くモーゼのようには感じなかったのです。
しかし三日目の夜、色が彼女の手から流れ落ちるとき、彼女はこれは彼女のための贈り物ではなく、自分を通じて人々に分かち合うべきものなのだと理解しました。 気がつくと真夜中でしたが、彼女は起きあがって、階下の油や原料が置いてあ る小さな実験室に行き、まるで他人の手に導かれるように、最初のオーラ・ソーマ・オイルが創られたのです。
しかしまだオーラ・ソーマが誕生した目的は想像もつきませんでした。 その同じ夜、オーラ・ソーマという名前が彼女の所にやってきて、クリスタルのエネルギーをそのオイルに封じ込める特別な方法も伝えられました。
こうしてその数時間後に、食卓の上に乗っている最初のオーラ・ソーマのカラー・コンビネーションがマーガレットによって発見されたのです。
明日に続く。。。
ドミニク 記 (ぱりさん 翻訳)
ドミニク・ヨーマン氏のHPはこちら↓ http://sites.google.com/site/bringingcolour/home
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