コーラルは相互依存に関係する
「コーラルという色について」より クローディア・ブース
現象世界で生きる(なかでも人間世界で生きること)には、【依存】という問題を避けて通ることはできません。
というのも私たちは、他人に依存せずに生きることはできないからです。
人間は独りで生きることはできません。
だから「人間」と書いて、「人と人の間で生きる者」を表すという言葉を聞いたことがあります。(^^;)
あなたは、狼や猿などに育てられた子どもの話を聞いたことがありますか?
言語野が形成される幼児の一定の時期を人間社会のなかで過ごさなかった子どもたちは、けっきょくその後も人間として生きることはできませんでした。
もちろん、ここで【依存】というのは、そんな極端な場合のことだけを言っているわけでもないですが。(^^;)
人間として生きるということは、何らかの意味の「社会」のなかで生きることですよね。
それは必然的に他人と関わり、何らかの意味で他人に【依存】しながら生きることだと思います。
いや、自分は何かに依存して生きたくはない、自分は独立して自立した人生を送りたい、とおっしゃる方もいるかもしれません。
【依存】を経済的依存の意味にかぎるなら、現代の社会機構のなかである程度の経済的自立を達成することは、もちろんできるでしょう。
しかし、経済的に自立できているということと、【依存】から自由だということとはまったく別のことです。
マズローの欲求段階説というのを聞いたことがありますか?
行動心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階(あるいは6段階)で説明したそうです。
http://blog.omiyageya-san.com/sell/maslow/
最も基本的な食事や睡眠を求める①「生理的欲求」が満たされてはじめて、②「安全の欲求」が生じ、それが程度満たされてはじめて、③「社会的欲求と愛・所属の欲求」が生じ、それがある程度満たされると、次に④「承認・自己承認の欲求」が生じ、それがある程度満たされると⑤「自己実現の欲求」が生じ、それが満たされてはじめて、⑥「自己超越の欲求」が生じるというのです。
ここで、マズローの①から⑤までの欲求段階が、すべて何らかの意味で他人に【依存】していることがわかるでしょうか?
それがすべてある程度満たされてはじめて、「自己超越の欲求」、つまり【依存】からの自由が求められるのかもしれませんね。
ただ、【依存】にもいろいろな形があるようです。
一方が全面的にもう一方に【依存】する形。
二人の人間がまるで同型のように依存し合う【共依存】の形。
そして相対的自立存在が互いに依存し合っていることを認める【相互依存】の形。
こういった【依存】の形は、どこか人間的成長を映し出しているのかもしれません。
ではクローディア・ブースの「コーラルという色について」から、コーラルのエネルギーが相互依存に関係しているというお話をご紹介しましょう。
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私たちはレベル1 とレベル2 のコースで、この色が共依存や自立ではなく、むしろ相互依存に関係することを学びます。
コーラルでワークをしたり、コーラルについて瞑想することは、自分が誰であるかについて、またどこで自分が感情的視野から反応しようとしているかについて、その概念の基盤を見る機会を与えてくれます。
私たちの態度は、どれくらい意識的でしょうか?
状況に反応するとき、私たちの感情は巻き込まれます。
その反応を生みだした最初の体験はなんでしたか?
それは現在も有益な反応ですか?
私たちが自分の行為や反応の仕方を変えない場合でも、その背後のエネルギーが少なくなっている可能性があります。
もし自分の反応する性質に関して、より意識的だとしたら、私たちはより創造的で助けになる行為にエネルギーを保ちはじめられたかもしれません。
共依存
もし、私たちが共依存の状態にあったら、私たちは相手が自分のためになにかしてくれることを求め、その相手に寄りかかっています。
それは、相手にはどんなふうに感じられるでしょうか?
おそらく相手は、あなたを重荷に感じるでしょう。
私たちはなにかの理由で、ひとりで立つことに恐怖を感じています。
その理由はなんでしょうか?
それは、どこから来たのでしょうか?
共依存は、また相手側もあなたに寄りかかっていることを暗示しています。
共依存関係に関わる者は、そこからなにかを得ており、現状を、つまり生みだされる半“調和”を楽しんでいます。
しかし、やがて息苦しさを感じるときが来ます。
なんらかの理由で、そこにはじゅうぶんな自由がないのです。
その関係性の両方、またはそこに関わる者は、なにかを諦めたか、またはそのような関係の中にいるために、自分にとって重要ななにかを無視しているのです。
最後には、私たちは自分自身に対して真実でなければならず、その時点で共依存の関係はストレスとなります。
自立
そして、自立があります。
映画などでよく、約束をしたり、あるいはしばりつけられたくない登場人物を見かけます。
彼らは自分が依存しないでいられる、つまり自立していると考えます。
ブッダのボディにおけるキリストのイニシエーション
は、ある意味で自立に関係しています。
それは個性化のプロセスです。
しかし、私たちがもっと本当の自分自身を知るようになり、あるがままの他者を認めることができればできるほど、私たちはより多くの思いやりを与えたり、体験したりすることができるようになります。
その体験こそが最大の喜びです。
人間として私たちは依存しないでいることはできません。
それを望む人はいるかもしれませんが、“人は、ひとりでは生きていけないのです”。
このテーマを特別に探求した映画があったと思います。
もし、自分がなにひとつでも他人に依存していなかったのだとすれば、自分がなにをしなければならないのかを想像してみてください。
今日、隣の村で水道管が破裂して、私たちのところは6 時間以上断水しました。
なんの警告もなかったので、私たちは誰も飲み水の取り置きをしていませんでした。
たった一日でも、水が得られないことを想像してみてください。
たまたま、その日の気温は30 度に達しました。
暑い日だったのです。
そこで、コーラルの色を使って、また海の珊瑚のように、私たちは相互保全の体験(つまり、自分がいかに多くのものにサポートされており、また自分もサポートをはじめることができるという体験)をはじめることができるわけです。
『リビング・エナジー』Vol.6(p121-122)
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【もし、自分がなにひとつでも他人に依存していなかったのだとすれば、自分がなにをしなければならないのかを想像してみてください】という言葉はとても示唆に富んでいますね。
現象世界のなかで自分が自立しているという観念は、ひとつの可愛らしい勘違いなのかもしれません。(^_-)
pari 記