光と色の閃光への魂の応答
「オーラソーマ 光と身体」から ドミニク・ヨーマン
色に触れたとき何かを感じるのは、そのことを言葉として表現するかしないかとは関係なく、誰もが日常的に体験していることです。
黄色く一面に広がった菜の花畑を見れば、ワーっと明るい気分になるかもしれません。
赤いツヅジが一面に広がっていれば、それはまた別の気分を喚起するでしょうね。
ただ、それがどういう気分なのかを言語化することはまったく別のことです。
でも、たとえ言葉にはできなくても、何か感じは違うわけです。
空の色ひとつにしたってそうですよね。
晴れた日には晴れた日の雰囲気が、曇った日には曇った日の気分があります。
そして、どの気分も細かく言えば、どれひとつとしてまったく同じということはないわけです。
すべての人達が感じていたことでしょうけど、それが色はそれ自体のメッセージを放っているのだと言語化されると、あ、なるほと (@_@)、と改めて納得したりしますよね。
そうしてみると、私たちは毎日、たくさんのメッセージを外界から受け取っているわけでしょう。
そして、微妙な気分の変化を味わっているのかもしれませんね。
では、ドミニク・ヨーマンの「オーラソーマ 光と身体」の記事から、色が放つエネルギーに私たち応答する象徴的な場面、チベットの死者の書に触れたあたりの記述をご紹介しましょう。
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オーラソーマのギフトは、その内なる質がそれ自体を表し、色として現れ、そして、このように光の言語を話す方法を備えていることです。
長い由来があるにもかかわらず、それは20世紀の西洋の世界では親しみにくい概念かもしれません。
世界における、多くの古代の伝統的な知恵において、色の言語は魂の進化における統合的な役割を演じています。
たとえば、バルドソドル(チベットの死者の書)において、それはこう言わ
れています。
原典訳 チベットの死者の書 (ちくま学芸文庫) Amazon |
体から魂が離れると、次に現れるのは光と色の閃光の連続です。
この光と色は、体とともに消えてしまった五感とは独立して知覚されます。
光と色を観ているものは意識それ自体です。
意識がどのようにこの閃光の連続に応答するかは、気づきと、その色によって意味される人生のその分野に、実際に魂が到達した熟練のレベルの尺度になります。
もっと言うと、この光と色の閃光への魂の応答が、魂が次にどの生に転生するかの環境を決めることになります。
スピリットの実現のプロセスへの鍵となる部分を説明するのに使われる言葉が光明(エンライトメント)であることに偶然はありません。
それは強烈で純粋な光の閃光の認知なのです。
オーラソーマでは通常、この気づきの光、魂のスパイラルを真のオーラと定義しています。
それは私たちの最も内側にある質です。
それは、色とそれに類似した光線とに関連しており、この光の断片が、そのレッスンを学び、その質を純化させながら永劫を通して進化していく道ともまた関係しています。
この世に生を受けるにあたって、真のオーラは、そこに含まれた色の光線として現在の完璧さを、人生の状況にもたらします。
その環境の傾向はまた、それ自体が色として表現されるかもしれません。
このようにして最も根本的なレベルにおいては、それぞれの生というものは、色が色に出会うというふうに見ることができるかもしれません。
それはちょうど二つの層が出会うように。
『リビング・エナジー』Vol.4(p78)
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【光と色の閃光への魂の応答が、魂が次にどの生に転生するかの環境を決めることになります】
【最も根本的なレベルにおいては、それぞれの生というものは、色が色に出会うというふうに見ることができるかもしれません】
そういうこともあるのかもしれませんね。
pari 記