私たちの提供する本質的な鍵は、「サマサティ」という言葉の中に含まれています。

この鍵を使うに際して、あなたが誰で、どこにいて、何をしているか、といったことはまったく関係ありません。

「サマサティ」とは「正念」とも訳され、「正しい想起」を意味します。「正しい想起」とは、私たちの本質が身体でも心でもない、その両方を超えた気づき、意識そのものであることを想い起こす、ということです。やって来ては去る、あらゆる現象―そこには思考や感情、身体の感覚も含まれます―を見守る、気づきそのものであることに気づく。これこそが、瞑想の本質なのです。

瞑想は、誰でもできます。宗教的な信条や哲学とは一切関係ありません。瞑想のスペースは、現象界に存在するすべてを超えています。OSHOは神秘家として、実践に基づいた知恵や洞察を分かち合ってくれていますが、最終的には、個々人の体験がすべてです。

サマサティ・ヴィジョンは、死に対して、革新的な違いをもたらします。
・もし、死が恐ろしいものでなくなったら、あなたの人生はどうなるでしょう?
・もし、旅に出るのと同じように、身体を離れる準備をすることができるとしたら? 
・もし、あなたとあなたの愛する人たちが、平安に満ちるだけでなく、喜びにあふれて死ぬことが可能だとしたら?

近年、多くの人たちが死に対する考えを問い直しています。これは素晴らしいニュースです。死に対する関心を、「病的だ」とか「生からの逃避だ」とか「死期を早める」とか「縁起が悪い」とする考え方を見直そうとしているのですから。

死は、誕生と同じぐらい自然です。OSHOの言葉を借りれば、「私たちは死をはらんで生まれてくる」のです。

もし、死は不可避だと分かっていれば、そして、死が恐怖や不安をもたらすなら、その事実を受け入れ、それが何を意味するのかを、「今」知ったほうがよくないでしょうか? 息を引き取る直前までそれを延期するのは、飛行機に乗ってから、パラシュートの布を織るようなもの、あるいは、産気づいてから、マタニティクラスを受けようとするようなものだと思いませんか?

興味深いことに、「死」というテーマに深く足を踏み入れれば踏み入れるほど、私たちはいのちを強烈に感じます。死を目前にした多くの人々が、自伝を書き残したり、出版したりしています。「そう、死が近づいている」と知るとき、生の比重は、とてつもなく大きくなるのです。

こうも言えるかもしれません。もし、限られた時間しか残されていないと分かったら、あなたは、今まで決してしたことがないほど大切に、濃密にその時間を生きることになるでしょう、と。もう長くはない、いつ終わりが来てもおかしくないと分かったら、あなたは、「今ここ」へと連れ戻されます。時は凝縮し、くつろぎの中で、あなたは今までより大きな自己感覚を手にすることでしょう。あなたは、今まで決して試みたことがないほど情熱的に愛し、強烈に生きるようになるのです。

死を目前にして、愛する人たちや、今までの人生に別れを告げなくてはならならなくなった人の多くが、あきらめからいやいや運命を受容するのではなく、エクスタシーに満ちた意識状態を体験しています。

こうした理解が人生の芳香となれば、あなたが息を引き取るとき、慌てふためくことはないでしょう・・・平安なだけでなく、喜びと、感謝さえ感じながら手放すことも可能になるでしょう。

もう一つ、興味深い事実があります。リラックスしながらも、この瞬間に最大限に気づいている状態、時が止まり、自己感覚が変容し、生きとし生けるものとすべてとつながっているという感覚、エクスタシーといのちに満ち満ちた気づきの状態とは、たくさんの人々が瞑想で味わっているものそのものなのです! 

生においても、死においても、瞑想は私たちにとって、とても自然な道なのです。


私のワークは、いかに生き、いかに死ぬか、いかに喜び、いかに悲しむか、いかに青春を楽しみ、老いを楽しむか、いかに健康を楽しみ、病気を楽しむかという教えで成り立っている。

もし私が健康や、喜びや、生を楽しむことだけを教えれば、もう一方がおろそかになる。そうなれば、私はあなたの中に分離や分裂を生み出すものを教えていることになる。私はトータルに在ることを教える。

OSHO 「死についての41の答え」より




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